「信じる“だけ”で救われる」とは誤解を与え易い言葉である。「ただ信仰によって救われる」がより正確だろう。キリストを自らの救い主として信じた者は、キリストを愛する者になる。キリストを愛する者は、必ずいつかどこかで、キリストを人生の「主」、「王」、即ち「服従の対象」として受け入れる一大決心をするようになる。必ずそのようになる。もし信仰決心の日より、幾年もの歳月が経っても、いずれの現象も伴わないならば、その人は果たしてそもそもキリストを本当に信じたのか、吟味し直さなければならない。そのまま人生を閉じるつもりなら、その人は極めて危険な死に方をしていると思った方が良い。キリストは「あなたがたを知らない」(マタイ 25:12)と仰るかも知れない。
だから…
「信じる者だけが従うのです。そして従う者だけが信じるのです。」(ディートリッヒ・ボンフェッファー)
彼は、自らの殉教を、「最高の祝祭」と呼んだ。「信じる“だけ”」の“だけ”にもし安堵を覚えているとすれば、その人は、神の恵みを誤解している。ボンフェッファーはそれを「安価な恵み」(Cheap Grace)と呼んだ。キリストの人類への恵みは決して安価ではない。キリストは自らの全てをそこに代価として投じられた。惜しまずに全部である。私たちは神にかくの如き「自己破産的」愛で愛されたのだ。
だから日々の小さな従順も、殉教のような大きな従順も、この愛する王であるイエス・キリストへの贈り物の機会・特権だと思えるならば、神の恵みはその人にとって決して安価ではない。
