書評

『未来を決する重要な自問』

本書より「…H・O・J・ブラウンは、万人救済主義支持の動機を「キリスト教事業に関する不毛感と挫折感」と特定し、次のように述べています。『万人救済主義は、まだ回心していない愛する人を持つ人々に対して、明確な情感的説得力を有しているにもかかわらず、それが最も顕著に支持されているのは宣教地においてではありません。また、キリスト教界において、福音伝道や刷新運動が支配的でないにしても顕著である北米においても同様です。万人救済主義が最も支持されているのは、ヨーロッパにおいてなのです。特に神学者、説教者、そして国家が支援する教会員の間においてで、彼らの目には西ヨーロッパの人々のほとんどがキリストを無視し、快楽主義的自己実現より高位の価値を何一つ認めていない実情が見えています。彼らはキリストへと他者を勝ち得ることはしておらず、人々は無視されています。それゆえに「もう、どうでもよい。最後には、すべての人が救われるのだ」と釈明したがる人もいます。これは失敗・放棄の告白にほかならず、ある意味自分たちの無力さに浸っているようなものです。』」

私の周りにも、それが持つ「情感的説得力」を理由に、万人救済論、セカンドチャンス論などを、日本により適した宣教アプローチであると主張して止まない人々がいる。そのアプローチの方が、キリスト教に振り向いてもらいやすいはず、という信念だ。確かに、私も日本の霊的惨状に涙する者として、もっと効果的なアプローチをと常に思念している。そしてこの想いの裏に「不毛感と挫折感」が存在することは否めない。

しかしだからと言って、「何でもあり」という思いには決して至らない。そうならない単純な最初の理由は、統計がその正当性を裏付けていないからである。実際は福音が福音として保たれている教会や、宣教団体や、個人を通して、より多くの人々が回心へと導かれている。

本書の抜粋の通り、世界中の宣教現場(最前線)に於いて、そのような「策」を持ち込む者は殆どいない。世界で最も持ち込みたくなる場所なのにである。或いは神ご自身がそれを阻んでおられるのかもしれない。福音宣教の専門家たちは、聖霊により、それが主からのものかそうでないのかを敏感に弁える。

この抜粋は、更に興味深い「現象」を述べている。万人救済論が最も支持されているのは、かつてキリスト教の隆盛を誇った、そして今や形骸化したヨーロッパであると。特にリベラル化した神学者、説教者、国営教会の信徒たち。聖霊を知らず、伝道や救霊などもはやその概念にさえ残っていないという人々である。

ヨーロッパを思うとき、時々、日本は幸いかもしれないと思う時がある。日本はリバイバルを知らず、キリスト教をまだ知らないが、その分、深くキリスト教に失望した経験がない。ヨーロッパにはキリスト教とがっつり向き合い、そして失望し、強い意志を持って聖書を閉じた者たちが沢山いる。進化論、優生思想の発展に大きく貢献したチャールズ・ダーウィン、恐怖の共産主義独裁者ヨシフ・スターリン、「神は死んだ」と説いたとニーチェはかつては神学生であった。イエスはアーリア人だと主張し続けたアドルフ・ヒットラー、そして聖書の語る奇跡は全て作り話であると聖書の価値を著しく貶めた無数のリベラル神学者たち。彼らは自称クリスチャンである。問題は彼らが愛憎併存の人々であったことだ。いっそどちらかに振り切ってくれていたら、彼らの齎した霊的な破壊はより小さかっただろう。だから聖書はその中途半端な信仰の状態に強く警告している。

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」(ヨハネの黙示録3章15~16節)

人(Man)、運動(Movement)、機械化(Machine)、記念碑化(Monument)、過去の記憶(Memory)へと衰退の典型が「5つのM」で表現されることがある。ヨーロッパには礼拝のない〇〇記念教会が沢山ある。そういった過去の運動の余燼の中で、万人救済論のようなものが新たに人気を博している。火遊びのせいで燃えた家に中で、まだ火遊びをしている。ただ彼らがそれを愛するのは宣教の効率性を図ってのことではない。抜粋が語るように、「もう、どうでもよい。最後には、すべての人が救われるのだ」と、自らの救いについての不安と滅びの可能性から来る恐怖への緩和剤としてではないか。その状態をMovementとはとても言えない。

ちなみに日本は今どこか。人(Man)と運動(Movement)の間あたりか。ならば今、この国に生きるクリスチャンとして、聖書に対し、神に対し、どのような姿勢で歩むのか緊張感を持って問うべきだろう。1ミリ角度の下り坂は、下り坂だとは誰も思わない。しかしそれに気付かずに100年歩けば、出発点より200キロ降下することになる。実は急に落下したのではない。徐々に気付かずに自ら降って来たのだ。これが信仰の妥協、牧会の妥協、宣教の妥協にナーバスになるべき理由である。「情感的説得力」は魅力的ではあるが、重大なものを妥協していないか。これは日本の未来を決する重要な自問である。MovementをMovementとして維持するために問わねばならない。聖書を偏読(読む箇所、黙想する箇所を選り好み)せず、聖書が語る純粋な福音をそのままに維持し宣べ伝えるという姿勢は、「保守」なのではない。「原理主義」なのではない。「柔軟性がない」のではない。単純に神への畏怖である。神の人(Man)は、神の運動(Movement)に魁る。

本の表紙の画像です。 上部に「J・I・パッカー神学小論集 信仰義認と永遠の刑罰」と縦書きで書かれており、著者は「J・I・パッカー」、編訳者は「長島勝」と記されています。 背景は青と黄色の帯状の模様が重なったデザインで、下部には赤い帯の上に白抜き文字で「地獄は永続するのか?信じない魂の運命は?」と大きく書かれています。 出版社名「いのちのことば社」と価格表示も見られます。

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