書評

「あなたは変人になる」

本書(55p)より
「3. 万人救済主義は、牧会に多大な影響を与えています。仮に、すべての人が十九世紀のトラクトの標題にあるように「救われる運命にある」のであれば、この世における(信仰の)決断の重大性、それに現在における宣教活動の危急性は損なわれてしまいます。この世において、自分の隣人をキリストに勝ち得ること以上に、彼らを他の方法で愛することのほうがより重要だと考えられかねません。ですから、いわゆる社会的福音(social gospel)への熱心な取り組みと万人救済主義を唱える神学が手を取り合ってきたことは、偶然ではありません。ゴルトールド・ミューラーは、こう記しています。「指導的な宗教的社会主義者のほぼ全員が、彼らの神学において万人救済主義者であったと思われる。」万人救済に希望を抱いていた T・D・モーリスから始まって J・A・T・ロビンソンに至るまで、上記のとおりです。ロビンソンは生涯、徹底的な社会主義者であり、万人救済主義者でした。」

万人救済主義の福音主義教会内への浸透が、その教会の生命線を切断し得る最大の理由はここにある。「宣教活動の危急性は損なわれてしまう」なぜそうなっていくのかは子供でも理解ができるはずである。

もし、すべての人が最終的に救われるのであれば、宣教は「命がけの召命」ではあり得ない。パッカーの核心的懸念は、ここに集中している。これは意見の相違というレベルの話ではない。万人救済論では、悔い改めの必要性も失われる。使徒2章、17章に見られる「使徒的宣教」は成立しなくなる。そして牧会は「慰め」と「共感」を中心とするものへと傾斜してゆく。

これは推論ではない。実際の教会史が、その帰結を明確に示している。19世紀に再浮上した万人救済主義を歓迎した教会は、その後どうなったか。

代表的なケースに、アメリカのユニバーサリスト教会。1830〜1860年頃に急成長した。万人救済論は滅びについて語らない。ヒューマニストたちには、罪責感なく「クリスチャン」でいられる魅力的な教会が誕生したのだ。しかし1870年以降、成長は完全に停滞し衰退が始まる。1870年から1936年の間で40%減少した。彼らが主体となって作成した1899年の「ボストン宣言」は、伝統的福音主義との決別宣言であったと言える。これ以降、聖書の権威、罪と贖罪、キリスト論さえも教団の必須信条ではなくなっていった。そして1961年、独立教団としてのユニバーサリスト教会は遂に終焉を迎えた。

より衝撃的なのは、アメリカのコングリゲーショナル教会の事例である。かつてジョナサン・エドワーズを輩出したピューリタンの砦は、19世紀後半に万人救済主義を受け入れてしまった。その後は同思想の群れとの合併を繰り返し現在のUnited Church of Christ(UCC)となった。彼らは、2000年から2020年という僅か20年で43%減少している。

対照的に、万人救済主義運動やリベラル神学からの知的風雪に耐え続け、聖書の無誤性と永遠の刑罰の教理を堅持した南部バプテスト連盟は、1960年の1,000万人から2006年には1,630万人へと63%成長した。ペンテコステ派のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドは同時期に50万人から300万人へと6倍に成長している。

万人救済主義を日本の福音主義教会も無関心ではいられない理由はここにある。この教理から宣教に「命をかける」者が起こされるはずがない。神学校はいよいよ本当に空っぽになってしまう。献身者がいなくなる。万人が最終的に救われるのである。ならばどうして、世界一宣教が困難な国の一つと言われている日本で、ジリ貧覚悟で牧師や伝道者になる必要があるか。

仮に彼らの主張が正しいとしよう。にもかかわらずである。もし誰かが、人生を、時間を、財を、命を捧げて福音宣教に献身しようものなら、その人は、彼らの目にどう映るのだろう。その人は、完全に聖書を誤読した、知性の乏しい常識はずれな『愚か者』と映るだろう。私がそちら側の人間だったらそう見る。そんな生き方絶対やめておけと言うだろう。

でも実際はこうだ。彼らが今になって聖書の何をどういじくり廻そうとも、もし自分が「クリスチャン」だと自称しているなら、そのアイデンティティーを彼らにもたらした者、つまりそれが何十年前、何百年前であっても、そこに福音を届けた者たちは、大体が『愚か者系』の人々たちであったということだ。自分が怪訝に思っているその種の人々のおかげで、ご自分が今日「クリスチャン」なのだという事実は否みようがないはずである。

私が米国で所属していた教団に伝説的な牧師がいた。彼はこう言った。

「週に一度教会に通ったところで、誰もあなたの変化には気付かない。でも週七日間毎日神を礼拝すれば、あなたは変人(strange)になる。」(A.W. Tozer)

銀が炉で精錬されるように、宗教改革の炎が残したものは、聖書と大宣教命令への「回帰号令」であると私は信じている。あの時代の歴史を読めば読むほど、あれ以前の暗黒に教会を戻してはならないと強く思わされる。暗黒とは宣教という概念さえない状態だ。福音の沈黙だ。

オリンピックの灯火のように、今だにその火を継承し維持している教会がある。聖霊の火が灯り続けている教会がある。そこには必ずこういう「変人」がいる。毎日毎日、聖書というパンを貪り喰っている人だ。時に呻きながら、時に涙を拭きながら、時に感極まって変な奇声を上げながら、嬉々として「個人礼拝」を捧げている人だ。飽きずに何年も何年もである。そしてそれが最高に楽しいと言う。どこからあの食欲が湧いてくるのか。あの神欲の旺盛さはどこから来るのか。知らぬ人には全く理解の出来ぬ境地であろう。

これが「愚か者」の正体だ。「変人」の正体だ。福音を宣べ伝えている人々の正体だ。間違っても聖書誤読の結果などと言ってはならない。特に聖書を読みもしない者が。

但し「愚か者」はいい。「愚か者」(1コリント1:27)とはクリスチャンにとっては称号である。「変人」は賞賛である。Jesus Freakと呼ばれたら勲章ものである。我らは本物のクリスチアヌス(初代教会期の蔑称)であり続けたいのだから。

本の表紙の画像です。 上部に「J・I・パッカー神学小論集 信仰義認と永遠の刑罰」と縦書きで書かれており、著者は「J・I・パッカー」、編訳者は「長島勝」と記されています。 背景は青と黄色の帯状の模様が重なったデザインで、下部には赤い帯の上に白抜き文字で「地獄は永続するのか?信じない魂の運命は?」と大きく書かれています。 出版社名「いのちのことば社」と価格表示も見られます。

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