「QT/デボーション

マタイによる福音書20章29〜34節

    この二人の盲人のことを想像する。この時代にあって、盲人であるということの意味を。ツァラアト患者と同じく、彼らは自身か先祖の罪の報いを受けていると見られていた。物理的に見えないだけではない。社会が「希望が見えない」状態に彼らを追いやっていた。

    ツァラアト患者たちがそうであったように、ここにも同じ苦しみを負う者の共同体がある。二人は友となり、兄弟となり、家族となった。互いが互いの杖となり、支え合っていた。見える者には知り得ぬ、深い絆が両者にはあった。

    その彼らに、ナザレのイエスのうわさが届く。彼らの日々の行動範囲はごく限られていた。それを超えて行くということは不便なだけでなく、とても恐ろしいことだった。でも彼らは奮い立った。そして人生で初めて、その線を超えた。互いに手をしっかりと握りしめて、闇路を歩いた。何度もつまずき、何度も迷いながら歩いた。

    同じくイエスのうわさを聞いた人々が、次々に彼らを追い抜いて行く。彼らは途中で何度も思っただろう。「だめだ。これでは間に合わないだろう。たとえエリコに無事に着いても、その頃にはもうイエス様は行ってしまっているだろう。」

    二人の旅路に何時間、あるいは何日かかったか、聖書は語らない。しかし二人には長かったに違いない。

    そして彼らはようやくエリコに到着する。そして幸いが訪れた。間に合ったのだ。群衆のざわめきで分かる。自分たちの前を、何とイエス様が、まさに今、通ろうとしているのだ。

    彼らは思わず全力で叫んだ。なりふり構わず叫んだ。泣き叫び、わめいた。

    「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください!」

    群衆のただ中である。静かな場ではない。それでもこの二人の叫び声は、場の空気を引き裂いた。そのあまりの悲壮感に、人々は彼らに白い目を向けた。ある者たちは、「うるさい、黙れ!」と二人をいさめた。

    でも彼らは、ますます叫んだ。羞恥はない。配慮もない。作法など知らない。そんなことはどうでもいい。そんな場合ではないのだ。今、このお方に届かなければ、もう自分たちには他に望みはないのだ。

    この後、二人に何が起きたかは、聖書の記録のとおりである。

    私はこのストーリーから単純にこう思わされた。三十八年間のクリスチャン人生の中で、このような切実な叫びを神に対してしたことがあっただろうかと。

    涙し、心の内で叫んだことはある。実際に大きな集会で叫び祈ったこともある。しかし、この二人の盲人のように、もう他に道はない、このお方に届かなければ終わりだ、そういう切迫感をもって、周囲の目をはばからず、全力で主を呼び求めたことがあっただろうか。

    聖書には多くの祈りの人の姿が記録されている。そしてその中には、静かな祈りの姿もあれば、魂を注ぎ出すように、うめき、また叫ぶ祈りの姿も記録されている。特に詩篇には、その記録が多い。

    祈りの「道」を、私などには全く分からない領域まで深く進まれた方々の証しを聞くと、私がどれほど祈りの素人であるか思い知らされる。

    そしてこの「道」を、私が勝手に細く、狭く、短いものにイメージしてしまっている事実に気付かされる。

    「敬虔な祈り」とは、どのような祈りであると読者の皆さんはイメージなさるだろうか。また教会は、どのような祈りを模範として語り、示してきただろうか。

    ヘブル人への手紙の著者は、イエス様の絶叫の祈りをこう表現している。

    「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5章7節)

    著者は、これを非常識でも、過激でも、狂信的でも、配慮不足でも、非伝統的でもなく、「敬虔」と表現した。そしてその祈りは、「その敬虔」の故に「聞き入れられた」とある。

    イエスを信じる者の祈りは、すべて「聞かれている」と私は信じる。だが聖書は、はっきりと、すべての祈りが「聞き入れられる」わけではない事実を何度も示している。

    例えば、「疑いながら求める人は、波のように揺れ動いており、そのような人は主から何かをいただけると思ってはならない」(ヤコブ1:6-7)など、複数の「聞き入れられない」理由が列記されている。

    では叫べばよいのか。そういう単純なことではないのだろう。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、すべてを注ぎ出して神に祈るということは。

    だが、この二人の盲人の行動と、ゲッセマネでのイエス様の祈りの姿を思うとき、キリスト教会は、叫びの祈りを、涙の祈りを、なりふり構わぬ祈りを、歓迎する霊性を持たねばならないと思う。

    確かに、愛がなければ、やかましいどらやシンバルと同じ、という状況は発生し得る。だからイエス様は、一人になれる寂しい所によく引き下がられた。

    だが、もし教会が、あの二人の盲人に「黙れ」と命じた群衆と同じように、それをやかましいどらやシンバルと即断し、それを排除しようとするのであれば、その教会は、とても配慮に富んだ、お行儀のよい教会なのかもしれないが、もしかしたら、祈りの「道」の深みをまだ知らない、成長の余地を多く残した教会なのかもしれない。そのように、注ぎ出して祈る人々の姿を、そしてその実を、十分に聖書から学んでいないのかもしれない。

    今日、私はこの二人の盲人の絶叫に、目を覚まされた気分だ。私の祈りは浅い。彼らのように切迫した祈りをささげていない。彼らと状況は同じなのに。「このお方に何とかしていただかなければ、もう終わりだ」という現実に取り囲まれているはずなのに。

    これだけ滅びゆく魂の現実を目の前にしているのである。EE JapanもKICも、タスクは山積みである。まさか、この現状に慣れたのか。我が魂よ!そんなはずはないだろう!

    祈りとは、神との対話であり、幸いな人格的な交わりである。それだけでも祈りは既に成功である。だが、神が私たちに祈りの扉を開いてくださっている別の理由は、人にはできないことを、神がその礼拝者を通して成し遂げるためである。

    スザンナ・ウェスレーや、ジョージ・ミュラーのような先人たちは、その経験から確信に満ちて語る。祈りに秘められた、とんでもない力について。私はまだそれを知らない。十分に味わってはいない。私は祈りの「道」の入門者だ。

    「その敬虔のゆえに聞き入れられた。」

    「敬虔」のイメージを、場合によっては木っ端微塵に破壊しなければならないかもしれない。それは、形式であって、敬虔とは程遠いものだからだ。そしてその上で、聖書からその定義を再構築しなければならない。そのための良き祈りのモデルを、私たちは数多く聖書から見ることができる。私は、その作業の途上にある。

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