コラム

『福音主義とは』

私は、10代で聖書と出会い、それ以来「福音主義」という聖書価値観から、大きくはズレることなく歩んで来た。特に Lancaster Bible College での4年間は、決定的であった。
但し在学時(90年代)の LBC には、所謂「聖書主義」的な、極端とも取れる保守姿勢があった。それには、4年間疑問を抱き続けた。余りにも硬すぎる、律法主義的過ぎるという印象があった。特に、当時私には神秘的な集団と映っていた「ペンテコステ派」・「カリスマ派」への警戒姿勢は、過剰であり不適切であるとさえ、しばしば感じた。

LBCに入る前、私はジャーナリズム専攻であったため、「噂を信じない」「結論に急がない」「自分の足で行って、見て、聞いて、対話して判断する」という鉄則が自分にはあった。
その鉄則に従い、在学中、幾つかのペンテコステ派、カリスマ派の教会に通ってみた。その結果、警鐘通りだと思ったケースもあれば、警鐘に全く当たらない、むしろ福音派の多くは偏見を捨てて、彼らから多くを学ぶべきだと思ったケースもあった。特にニューヨーク市の Times Square Church で受けた恵みは、今も自分にとって計り知れない。

当時 LBC が憚らず批判していた「リベラル神学」についても、私は鵜呑みにせず鉄則に従った。関連書籍を読み、リベラル派の教会にも足を運んでみた。
しかしこの体験は、ペンテコステ派・カリスマ派の教会を覗いた時とは全く違ったものになった。リベラル神学につく人々とは、生きている世界も、求めているものも、一切が異なるという印象であった。接点らしきものを何一つ見出せなかった。

そしてこの件に関しては、LBCの評価は正しいと思った。その警鐘通り、リベラルは異端よりも遥かにタチが悪いと思った。
リベラルと異端の違いは何か?ある人が上手いことを言っていた。
「非聖書的なことを神学博士100名が語ればリベラルになる。だが無学な牧師数名が主張すれば異端となる。」
異端への警戒は強くても、リベラル神学への警戒は薄いという状態は、我々福音派の間でも見かけられる。

英国の牧師、G. Campbell Morgan (1863–1945) の言葉を何処かで読んで以来、記憶から消えない。
“To call a man evangelical who is not evangelistic is an utter contradiction.”
「福音伝道的でない人物を、福音主義者と呼ぶのは完全な矛盾である。」

でも、この矛盾が普通になりつつないだろうか。
祈りがあり、聖書黙想があっても、救霊への情熱がない。
最後にいつ、個人伝道をしただろうか。
そしてこの危機感の欠落は、私たちの救いの理解、また滅びの理解と無関係ではないと思う。

そんなことを自問していたら、本書を見かけた。
J.I. Packer が本書を綴った動機が冒頭に書かれている。

「救われていない者の運命・地獄という主題の重要性ゆえに、私の理解ではボサムのように、私も幾分かの強打で攻撃しなければならないという事実を皆さんに理解していただきたいのです。私にとって決定的に重要な真理が攻撃を受けているのです。そしてそれらを効果的に再肯定するために、私は福音派ではない人のみならず、私自身が帰属する福音派の同僚の幾人かに対しても強打を打たねばなりません。」

J.I. Packer の著作は、LBCでも複数課題図書だった。
本書をゆっくり読もうと思う。
その内容を時々、ここでもシェアしたいと思う。

本の表紙の画像です。 上部に「J・I・パッカー神学小論集 信仰義認と永遠の刑罰」と縦書きで書かれており、著者は「J・I・パッカー」、編訳者は「長島勝」と記されています。 背景は青と黄色の帯状の模様が重なったデザインで、下部には赤い帯の上に白抜き文字で「地獄は永続するのか?信じない魂の運命は?」と大きく書かれています。 出版社名「いのちのことば社」と価格表示も見られます。

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