コラム

「神道楽」

我は今日、あの日の「愛」を思い起こす。
あの日の「恍惚」、あの日の「感動」、
あの日の「感涙」、あの日の「喜悦」を思い起こす。

我は、あの「喜悦」に勝る心満意足を、未だ知らない。
我は、あの日から、さすらい人である。
神の「喜悦」を知った以上、それ以下に
満ち足りるという選択を失ったからだ。

我は、あの日から「神道楽」である。
神道楽は、味道楽である。
究竟の味道楽は、駄食、駄舌の俗を忌む。
その「喜悦の瞬間」のために、
彼らは食欲と味覚を意図的に研ぎ澄ます。

神道楽も、霊の駄食、駄舌の俗を忌む。
これは敬虔ではない。欲望である。
あの「喜悦の瞬間」に帰るために、
あれ以下ではどうしても満ち足りぬ故に、
神道楽は、神欲と霊性を意図的に研ぎ澄ます。
こうして聖書を開くのである。

神道楽は聖化の道である。
人の三大欲求(食欲・性欲・睡眠欲)は、
同時に支配的になることはない。
一つが支配的であるとき、他は待機する。
神欲旺盛にして、その喜悦の追求に夢中であるとき、
基督者は、他欲の支配から自由である。
これが禁欲者が道楽者に勝てない理由である。

ゆえに基督者よ。神道楽であれ。
その欲望の虜となり、放蕩者たれ。
この欲望の放縦に限っては、汝は破滅に至らない。
汝が味わひ知るは、自由であり、充満であり、聖化である。

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
汝の神を愛せよ。汝の神を永遠に喜び楽しめ。
その実とは、神の栄光である。

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