※この記事と写真は、2024年11月のものです。
今回のCPIコンフェレンスでも再び、「福音中心の…」という奨励を聞いた。福音中心とは具体的に何を意味するのか。それは当然、福音が何であるかという「福音の定義」にかかっている。しかしその定義が、残念ながらと言うべきか、一つではない。伝統的福音派、新興的福音派と最近は福音派でも大きく分かれる。
いずれの福音定義が正しいのかという議論は、この際傍に置くとする。しかしその定義の故に、個人に、家庭に、教会に、社会に、変革をもたらしたいと願うのであるならば、幾つかの満たさねばならない条件がある。
一つは、その定義が何であれ、その福音に心底心酔し、その福音を我を失うほどに愛し、その福音に「充満」にならねばならない。名著『伝道のマスタープラン』の冒頭で、ロバートE.コールマンは、共産主義の運動家たちの「凄み」を例に挙げている。如何に彼らが共産主義思想に心酔し「充満」であるかと。彼らはそれに合意し、確信し、献身し、惜しみなく命を賭ける。結果、僅か100年で、世界の約半分が共産化した。これが破壊的な運動であるということを除けば、初代教会から始まったキリスト教の拡大に極めて酷似した現象である。もし何かを「中心」として生きようと思うならば、そしてその故に社会を変革させたいと思うのであれば、条件は同じである。それに先ずは個人が、心底心酔し、それを我を失うほどに愛し、それに「充満」にならねばならない。
二つ目は、その福音定義が「平明」であること。これは仏教用語だが、「雑密」な教義から「雑密」な定義が発生する。献身へと引き寄せる福音定義は、何が何を何から救うのか、明白でなければならない。それがそのまま献身のための「大義名分」でなければならない。今何が燃えているのか、何が緊急事態なのか、何が解決なのか、そのために何が自分に求められているのか。その「炎」が、福音の定義を通して見えているから、自己犠牲の心が立ち上がる。そして言葉は悪いが、「火事場の〇〇力」が引き出されるのである。
伝統的福音主義に立つ宣教団体であるEEJapanは、そういう価値観を大切にしてきた。福音の定義が、聖書的であることは勿論、信者にも、求道者にも理解ができ、共感を引き出せる、「平明」なものに維持することに心を砕いてきた。そしてその定義を額縁に入れて眺めるのではなく、実際に持ち出して外で使う(実際に口頭で福音を伝える)ことが、福音中心の人生において不可欠であると説いてきた。自転車は漕がなければ立っていられないのと同じように。
福音中心の人生を生きるために。一つ、その福音定義が何であれ、それに心底心酔し、それを我を失うほどに愛し、それに献身すること。二つ、そうなるために、福音定義を平明に維持すること。沢山学べば良い。しかし福音定義に知識を、私見を盛り込み過ぎてはならない。我々は学べば学ぶほど、雑密を愛する傾向を持つ。それに抗わねばならない。なぜ先人たちは「聖書に戻れ」と血の遺言を残し続けたか。それは極めて実践的な理由からである。そうでないと力を失うからである。そうでなければ福音は、それを私たち以上に必要としている「失われた魂」から、ひたすらに引き離されていくからである。しかも我々クリスチャンの手によってである。そうならないために、私たちは、福音を聖書の福音のままシンプルに維持しなければならない。毎日携帯できて、いつでも、どこでも、誰にでもプレゼン出来るくらいに平明でシンプルなものに。
