Q:EEは海外では通用しても、日本では通用しないと思います。日本の宣教事情は、こんな伝道マニュアルのようなものでどうにかなるほど単純ではないと思うのですが。
A:確かに、その伝道アプローチが、その文化に「合うのか、合わないのか」という客観的判断は極めて重要です。さもなくば、主の働き人は、貴重なリソースを空費することになり、「徒労感」という重荷を背負い込むことになります。事実、その繰り返しの結果、かつてのような情熱を失った働き人が、どれほど多くいることでしょう。
ではEEは現代日本社会における伝道アプローチとして「合う」のか。評価は様々です。ある人々は「非常に合う」、「これは応用できる」と肯定的に評価します。しかしある人々は「全く合わない。最悪だ。」と否定的に評価します。またある人々は「まあまあだな」とどちらとも言えないような評価をします。しかし、その評価の内実はこうです。
EEでは、受講された方々に、「修了証書」を発行しています。それを受けることができる方々とは、最初から最後まで、この新しい伝道と養育のためのアプローチに対して、謙虚で積極的な学習姿勢を維持され、すべての課題をこなした方々です。この「修了証書」を受けられた方々の殆どが、極めて肯定的な評価をされます。そして実際に、自らの牧会現場や、信仰生活の中で、肯定的な変化を経験されます。しかし授業を途中で投げ出してしまわれた方々は、往々にしてそれなりの評価を下されます。そして「合わない」というような評価を下される方々の殆どが、受講さえしたことのない方々です。
リトルリーグで、子供たちは、バットの振り方の「基本」を学びます。肩を下げる、肘を張る、腰を曲げる・・・そのような指導に対して、子供たちは不快感を覚えます。そして「自分には合わない」と思うのです。そして指導者の質を疑い、野球を辞めてしまう子供たちが沢山います。しかし世界中のスラッガー(ホームランバッター)たちは、皆そこを通ったからスラッガーになれたのです。基本があったから、彼らは最高のマイフォームに辿りつけたのです。
EEは、個人伝道の「基本」を体得する機会です。そしてEEは、これまで世界中に、無数のソウルウィナーたちを輩出してきました。彼らは魂のスラッガーです。ぜひ皆さんも、EEから、個人伝道のマイフォーム、マイスタイルを見出して頂きたく願います。
Q:海外の大型教会の影響でしょうか。魅力的な礼拝や集会、現代風のイベントなどを通して、言わば「あみ漁」的に、人々を収穫することが、昨今の主流のようです。「個人伝道」は、「一本釣り漁」のようで、効果が限定的だと思うのですが。
A:確かに「網漁」に例えられるようなイベントや魅力的な礼拝を通して、人々を導こうとするアプローチが、クリスチャン人口の比較的高い国々では主流となっているかもしれません。「網漁」で成功する教会には、往々にしてカリスマ的リーダーや、有名説教者や、経済力を持った人物がいます。そのような人材が与えられていることは幸いなことです。しかし現実として、開拓期の教会をはじめ、小中規模の教会にとっては、そのようなアプローチが選択として存在しない場合があります。真似をしたくても真似ができないのです。そして日本のプロテスタント教会の殆どが、その状況に置かれています。しかし、そのような教会の伝道活動が、「限定的に」に留まる必要はありません。もしその教会が、「個人伝道」と「伝道者の増殖」に献身するならば。
EEでは、受講者が、個人伝道のスキルと経験値を身に付けるように訓練を提供します。それを身に付けた受講者は、生涯に亘って福音を宣べ伝えるようになるでしょう。しかしそれがEEの訓練の着地点ではありません。EEは受講者の中から、ご自身が受けた個人伝道訓練を、他の人にも施すことことが出来る指導者を育成します。このEE指導者とは、多くの場合、地域教会の牧師です。
もしこのEE指導者が、向こう10年間、「一年に二人」という単純な伝道戦略にコミットするならば、個人伝道が結ぶ実が、実は決して「限定的」で無いということを知ることになるでしょう。
ではこの「一年に二人」とはどういう戦略か。それは一年に一人、必ず、福音伝道を通して、信仰決心へと導くことです。そしてもう一人とは誰のことか。それは、個人伝道訓練を施す対象者のことです。もしEE指導者が、一年に最低一人に向けて、EEJapanの協力のもと、個人伝道訓練を提供するならば、翌年には、単純計算すれば、個人伝道が出来る状態のクリスチャンが、そのEE指導者を含めて二名になっているはずです。
この二名が、翌年、協力し合って同じことを継続します。すると単純計算すれば、その翌年には、四名の個人伝道のできる状態のクリスチャンがいることになります。これを諦めずに、10年間続けると、1024名の個人伝道の出来るクリスチャンが誕生することになります。しかし現実は現実です。当然ながら、訓練を提供しても、育たない、あるいは脱落する人たちがいます。でも仮に100歩譲って、受講者の5割が脱落したとしても、10年間で500名の福音を語れるキリストの弟子が育つことになります。更に1000歩譲って、9割が脱落したとしてもです。10年で100名以上の、福音を語れるキリストの弟子が残ることになります。これは、日本の現在の宣教事情を鑑みれば、快挙と言える成果でしょう。
ヨシュア記23章10節に、「あなたがたは一人で千人を追うことができる。」という言葉があります。これは、非現実的な言葉ではありません。もし一人のクリスチャンが、個人伝道と、信徒伝道者の発掘・育成・増殖に献身すれば、文字通り、その人は「一人で、千人を追う」ことが出来るのです。
「一本釣り漁」は、成果が「限定的」というイメージがあるかもしれません。しかし継続するならば、「網漁」を遥かに凌ぐ成果が期待できます。しかも、日本の教会にとって朗報なのは、このような豊かな実を期待出来るのに、他の方法のような莫大な費用は求められないということです。
Q:私は牧師ですが、信徒が福音を語ることに懸念があります。正しく学んだことがないので、不正確に語り、下手すると異端的なことが起きるのを心配します。信徒は、牧師に求道者や未信者たちを連れてくる。この連携プレーにどんな問題があると言うのでしょうか。
A:その連携プレーに問題があるとは思いません。しかし気付いて下さい。それと同時に、福音を語る者を牧師が発掘し、育成するということをしなければ、牧師が何かの事情で、もはや語れなくなるとき、その群れには福音を語る者がいなくなるということです。もし後継の牧師が立ち、あと一世代、同じ連携プレーを続けたとしても、同じ危機がまた巡ってきます。イエス様は、弟子たちを選んだのは、彼らが実を結ぶためだけでなく、「実が残るため」(ヨハネ15章16節)と言われました。EEを長年指導してきた経験から断言できますが、一般信徒たちは、牧師が思う以上に有能です。信徒も牧師並みに、時には、牧師以上に、雄弁に福音を語ることが出来るようになります。ぜひ信徒に福音を語る特権を、返してあげて下さい。
Q:EEでは、「あなたは今までの人生で、もし今日この世を去ることになったとしても、自分は間違いなく天国に入れて頂けるといった確信をお持ちになったことがありますか?」、「もし天国に自分が入れるのだとするならば、なぜ入れるのだと思いますか?」などと相手に聞くそうですが、ポストモダン以降の日本人は、死後のことなんか関心ないと思いますよ。
A:確かに、ポストモダン以降の日本人の多くは、「死後」についての関心が希薄になっているように感じます。「今・ここ」の幸福や自己実現、安心感に重きが置かれがちで、死や霊的な問いは遠ざけられているようにも見受けられます。しかし世論調査の結果は興味深いものです。2008年の読売新聞の世論調査では、死後に「生まれ変わる・別の世界に行く・墓にいる」と答えた人は、63.5% (29.8% + 23.8% + 9.9%)でした。「消滅する・その他・魂は存在しない」と答えた人は、27.5%(17.6% + 0.9% + 9.0%)、答えない、分からないと応答した人は、9.1%でした。2010年の朝日新聞の世論調査でも、「死後の世界」や「あの世」が「ある」と考える人が49%で、「ない」と考える人の43%を上回りました。また、死後も「霊魂が残る」と思う人は46%で、「そう思わない」と答えた人は42%でした。更に、2024年に、PRESIDENT ONLINEに掲載された、鵜飼秀徳氏によるZ世代(1990年代後半から2000年代前半生まれ)の大学生を対象にした調査では、「死後の世界を信じる」割合が62%、「霊魂の存在を信じる」割合が64%と報告されています。
つまり現代日本人の過半数が、漠然とであっても「死後観」を持っているということです。つまりEEのこの問いかけに、何らかの応答をする準備があるということです。「関心がない」と映るけど、実際は、それを「考えるのが怖い」、あるいは「答えが見つからないから避けている」と診断する方が、正確に思えます。そのような社会の中で、クリスチャンが忽然と「私は天国に入る確信がある」と明言することは、大変稀有であり、故に魅力的に映ることがあります。人々は「確信のある声」に耳を傾けます。だからこそ、EEの問いかけは時代遅れどころか、ポストモダンの混乱の中で福音の確かさを示す重要な方法だと言えるのです。
Q:私は昨今の神学研究の結果、「天国」という言葉の使い方に教会はもっと注意する必要があると思うようになりました。「死んだら天国に行く」とは聖書的に正確な表現ではないと思います。そこは所謂中間点な場所であり、最終的にキリストに贖われた魂は、新しい地という回復した物理的な世界に、新しい肉体を持って蘇るのだと信じます。そういう意味で、EEの「天国」という言葉の使い方は如何なものでしょう?
A:確かに「死んだら天国に行く」という表現は、神学的に見ればすべてを網羅しているわけではありません。聖書が語る最終的な希望、すなわち「復活のからだをもって、新しい天と新しい地に住まう栄光の完成」、から見ると、それはあくまで「途中経過」に過ぎないでしょう。しかしながら、この表現が「非聖書的」と断定するのは早急だと言えないでしょうか。
イエス様は、ルカの福音書23章43節で、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と言われました。イエス様は、「今日」、すなわち死んだその日に、「わたしとともにパラダイスにいます」とあの罪人に明言されたのです。それを聞き、それを信じたあの罪人は、「ああそうか!私はこれから天国という中間地点を経て、そこで何百年か眠った状態を過ごして、やがて時満ちて、物理的にも回復され新しい地に、復活の体で蘇るんだね!」と思ったでしょうか?彼はむしろ、「自分は今から死ぬけど、こんな恐ろしい世界を離れてイエス様と共に(天国)パラダイスに向かうんだ!」と思わなかったでしょうか。だとすればなぜイエス様は、「いや、正確にはね・・・」と、もっと正確な死後世界を彼に説明しなかったのでしょうか。十字架上ですから、そうする余裕がなかったからか。そうかもしれませんが、むしろ「天国」とか「パラダイス」という言葉には、「その理解で構わない」とする、とても豊かで、包括的な意味が含まれていたからではないでしょうか。
事実、パウロの死後観も、それに近いものでした。ピリピ人への手紙1章23節で、パウロは、「私はそのどちらにしようか、決めかねています。私の願いは世を去ってキリストとともにいることであり、それははるかにまさってすばらしいことです。」と言っています。「世を去って」とは死んだらという意味です。パウロは、この死という一枚の扉の向こう側に、直ちに、永遠の解放と永遠の慰めを見つめていました。実際は、「中間状態(intermediate state)」があるのかもしれませんが、パウロ自身は、すぐそこに「天国」(パラダイス)があると認識していたことは明白です。コリント人への手紙第二5章6〜8節でもそうです。 「…私たちはいつも心強いのです。そして、身体を離れて主のもとに住むことを、むしろ望んでいます。」 パウロは、「身体を離れて」、そこから何百年かどこかで待機するとはイメージしていません。死後すぐに意識ある形で主と交わりを持つと理解しています。そしてこの理解で良かったのでしょう。天国とは、とても豊かで、広義で、包括的な言葉なのですから。
ですから教会が伝道の現場や、お葬儀の現場で、「天国で再会しましょう」、「天国で主と共にある」と表現することは、決して非聖書的でも、誤った表現でもありません。あるいは何か特定の神学論を否定している訳でもありません。終末論や天国論を、より聖書的なものにすることは重要です。ですが、それらを「福音の第一声」においてすべて語りきることはできません。むしろ、初めて福音に触れる人に、そのような解説を語って聞かせようとするならば、その人の福音理解を逆に妨げる結果になるかもしれません。
EEは、未信者、求道者という、キリスト教をよく知らない方々のために作られた伝道アプローチです。学者肌の方々には、「ツッコミどころ」というものが多々見えるかもしれません。しかしそれはある意味、意図的でもあるということをご理解頂きたく願います。私たちクリスチャンは、終末論や、天国論についてより深く知識を身に付けつつも、同時にシンプルな希望のことばを通して、多くの人に救いの門を広く開く者でありたいと願います。
Q:私は伝道には「方法論」などないと思っています。語るべきは聖霊様がその都度示して下さると。EEは聖句や例え話など、覚えたことを伝えるそうですが、そこに聖霊様のお働きが期待できるでしょうか。
A:確かに伝道の働きは、聖霊様の導きなしには何一つ成し遂げることはできません。その意味で、「聖霊様がその都度語るべきことを示してくださる」という信頼は非常に大切です。しかし、だからといって事前に備えることが聖霊の働きを妨げるわけではありません。聖霊様は私たちと共に働くことも望まれるお方です。
聖書にはこのように記されています。
「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(ペテロの手紙 第一 3章15節/新改訳2017)
この命令は、「前もって準備すること」と「聖霊様による導き」が対立するものではなく、むしろ協働するものであることを示しています。使徒たちもまた、明確な福音の言葉と引用聖句を持っており、それに従って忠実に語りました。そこに聖霊様は力強く働かれたのです(使徒2:14-41、8:26-39参照)。
EEのアプローチも同じです。聖句や例え話を覚えておくというのは、決して機械的な伝道を意味しません。むしろ福音の要点や、御言葉や、適切な例話を心に刻んでおくことで、いつでも、どこでも、誰にでも、聖霊様と一緒に福音を伝えることが出来るよう備えをするのです。
礼拝説教も同じです。聖霊様に強められた優れた説教には、説教者自身による、深い祈りとみことばの黙想、そして「配慮」があります。どれほど霊的で神学的に完璧と思える原稿でも、その説教者は「もしかしたら礼拝に、キリスト教をまだよく知らない人が来るかもしれない」という「配慮」を働かせます。そしてなるべく分かりやすい表現へと原稿を最終調整をします。このすべての作業に、聖霊様はデリケートに働いて下さいます。
配慮とは端的に言えば、愛です。EEはキリストをまだ知らないばかりか、大きく誤解していしまっている人々のために、極限まで明瞭さにこだわった「福音提示」を追求しています。その配慮を、聖霊様はこれまで豊かに祝福して下さいました。その結果は、何百万人という変えられた魂です。