今日のQTです。
いよいよエルサレムに入城されたとき、イエス様が最初に向かったのは宮(神殿)だった。それはユダヤ教世界の心臓部とも言うべき所だった。その宗教の堕落ぶりが、ここに反映されている。両替人たちや、いけにえの動物を売買する者たちによって市場化していた。この時のイエス様は、感情をもはや隠さない。彼らを全員追い出した。そして強い語調で、彼らを叱った。神のための「祈りの家」を「強盗の巣」にしていると。さらにイエス様は、その大騒ぎの中で、病人たちを癒された。この神殿でそれをするということは、祭司長たち、律法学者たちのリアクションを想定してのことである。奇跡が更に騒ぎを大きくする。興奮する大群衆に、混じって幼い子供たちまで、「ダビデの子にホサナ!」と叫ぶ。「ダビデの子」という表現は、メシアの代名詞である。だが彼らの抱いていたイメージは、ローマ軍は勿論、その支配下で、宗教家というよりも政治屋になり下がっていた横柄で冷徹な指導者たちをも一掃する「社会革命家」であった。それを知っている祭司長、律法学者たちは憤怒する。これが想定外であったはずがない。イエス様は、明らかに「挑発的」なことをやっている。あるいは「挑戦的」がより正確か。翌日彼は、空腹を覚え、一本のいちじくの木に近づく。葉は茂っているが実がない。イエス様は、この木に向かって罵倒にも近い言葉をぶつける。「今後いつまでもお前の実はならないように」と。すると木は瞬時に枯れて朽ちた。この現象についての教訓も本節に記されているが、私は今日は、前半に思いを強く囚われた。
イエス様は苛立っているのか。この一連の暴力的とも言える、そしてあからさまな挑発とも言える振る舞いは、どうしたことか。
ここでイエス様のエルサレム入城の心境を想像する。イエス様は、柔和な羊飼いである。弱き者をいつも憐れんでくださるお方である。しかしこの日、イエス様は何を見据えていたか。ローマ軍を見据えていたのか。祭司長たちを見据えていたのか。律法学者たちを見据えていたのか。この宮の中の「強盗たち」を見据えていたのか。或いはサタンを見据えていたのか。そうではなく、この罪の死臭漂う人間たちの背後にある、強大な「壁」を見ていたのだ。それは創造者と被造物を絶離させた「罪」のことであり、イエス様は、その宇宙的な隔たりを、いよいよ修復し、両者に和解をもたらす彼の人生の本懐である「十字架」を見据えていたのだ。
エルサレム入城時のイエス様の心情を、どのような言葉で喩えたらよいだろうか。死ぬと分かっていて戦場に出ていく兵士のような心情だっただろうか。明日、処刑されると分かっている冤罪者のような心情だっただろうか。イエス様は「空腹を覚えられた」と18節にある。私たちはイエス様をまるでフィクション映画のスーパーマンのように、どんなストレスにも揺るがない非人間的な存在と思いがちだが、イエスは神であり、同時に人なのである。(ヨハネ1:1,14) 人が痛むことを痛むし、悲しむことを悲しむし、恐れることを恐れるし、誘惑だと感じるものを誘惑とお感じになる。(ヘブル4:15)
エルサレム入城。この時のイエス様の心には当然、緊張があったことだろう。だが苛立っていたというのとは違う。ここからは私の勝手な想像だと思って欲しい。それは「不退転の覚悟」、「戦いの狼煙はもはや切って落とされた」、「ここが天下分け目の合戦」…そのように腹を括った、眼光鋭い武者のような精神状態であったのではないかと想像する。ヨシュアがエリコの城壁を見据えたように、イエスも罪の城壁をじっと見据えている。
私は、ついて来た群衆の一人だ。イエス様を人垣をかき分けながら、離れた所から覗き見ている。いつもの静かで優しいイエス様とは、明らかに違う側面を見せられた気持ちでいる。
そして許されるならば、この大勝負を前した武将の背後で、静かに琴を弾き、その緊張を慰める少年ダビデのように、静かに控えておりたいと思った。いつでも動けるように。
