イエス様のたとえ話が続く。ここでもイエス様は「ぶどう園」というキーワードを用いられる。ぶどう園とは、旧約聖書においてもしばしばイスラエルを意味する言葉である(イザヤ5:1-7、詩篇80:8-16)。
このぶどう園の主人は、そこに垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、農夫たちが効率よく、そして安全に働くために申し分のない環境を準備した。(イザヤ5:2)。このような主人である。農夫たちには、正当な報酬がちゃんと用意されていたことであろう。
ところが、この農夫たちは、収穫の時が来たとき、主のものを主にお返しすることを拒絶した。しもべたちは殺され、ついには主人の息子までも殺してしまった。死人が出たのである。凄まじい執着心である。
求められたのは「主のものを主に返す」だけである。これは私たちキリスト者にも託された命でもある。そしてそれをある者たちは「喜び踊りながら」主人にお返しする。しかし、ある者たちは激しい執着と葛藤の中に滞留する。結果様々な凍結を経験することになる。
このたとえに続いて、イエス様は詩篇の預言のことばを引用される。(詩118:22-23 )
「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。」(42節)
あの時代、家を建てるために石が用いられた。建築に携わる者たちは、石を持ち上げ、運び、削り、より分けた。私の神学校の教授は、大工であったイエス様も、中世の絵画や近代の映画の与える印象に反して実際は、筋骨隆々であったのではないかと興味深く語っていた。
建設者たちは、建築に適した石とそうでない石とをより分ける。「この石は小さすぎる」「これはもろい」と判断して、不要と判断した石は捨てる。
メシアとは、そのように不要、役立たず、と判断されて人から捨てられるが、神の家、神の計画、神の永遠の御国の「要の石」となると書かれている。
「要の石」とは何か。(写真参考)私はかつて、米国のペンシルバニア州に留学していたことがあるが、この州には「要の石」のマークが至るところに掲げられていた。この州は、“Key Stone State” と呼ばれている。理由の詳説は避けるが、アメリカ建国の歴史においてきわめて重要な位置を占めた州であったからだ。「ここが崩れれば全体の形勢が崩れる」という意味で、まさに要の場所だったのである。

要の石とは、そのような意味をもつ。建物の頂点に置かれて全体を支える石、あるいは全体の構造と均衡を決定づける最重要礎石のことである。これが外されると建築物全体が崩壊する。

そしてイエス様は、この石はただ「捨てられる」だけでは終わらないと語られる。44節で、「この石の上に落ちる者は粉々に砕かれる」また「この石がだれかの上に落ちれば、その人を押しつぶします」と言われた。
メシアを排除するならば、神の裁きが容赦なくあなたがたの上に落ちてくると語っておられるのである。(イザヤ8:14-15、ダニエル2:34-35、44-45)。
自分のことを言われていると気付いた祭司長たちやパリサイ人たちは、腹を立てる。そしてこの忌々しいイエスを捕らえようとしたが、「群衆を恐れた」(46節)とある。
これは彼らの心をよく表している。地位を失うことへの恐れ、影響力を失うことへの恐れ、派閥から疎外されることへの恐れ、ローマ軍への恐れ、群衆への恐れ、人々の評価への恐れ、貧しくなることへの恐れ、嫌われることへの恐れ。恐れは彼らの行動原理の最大要素である。我々も「人を恐れるとわなにかかる」(箴言29:25)という警告に留意したい。
この対極におられたのがイエス様である。イエス様は祭司長も、パリサイ人も、ヘロデ王も、ピラトも、熱心党員も、群衆も、人の評価も、誤解も、弟子たちの裏切りも、友を失うことも、孤独も孤立も恐れておられなかった。サタンも恐れていなかった。富にも貧しさにも縛られず、主のものを主に返すことに躊躇はなく、まことに自由人であられた。ただ唯一、父なる神のみを畏られた。
この短い箇所に幾つも大切な教訓がある。
私たちもまた、主のものを主にお返しするよう命じられている。そうすれば「すっからかん」になるということでは決してない。エデンの園がそうであったように、我々には十分以上の生活の糧が用意されている。ただ「主のものを主に返しなさい」と命じられているだけである。
ところが、そのことについて講壇から語ることさえ許されないような空気があるらしい。幸い、私はそのような経験をしたことはないが、そのような境地に陥った教会や牧者の話は聞いたことがある。主のものを主に返すだけなのに、最初によぎる感情が喜びではなく、執着である個人や教会は不幸である。こんな甘い蜜をまだ知らないとは。
そして、要の石について。どれほど宗教熱心であり、研究熱心であり、ことば数が多くても、あるいはどれほど行動的で、奉仕熱心で、さまざまな働きに忙しい教会であったとしても、その構造の真ん中に、イエス・キリストが、その福音が、位置付いてないなら、やがてそれは瓦解する。このイエス様ご自身による警告を、私たちも聞かなければならない。
私は、宣教団体の働きに携わり、同時に一般職の経営者でもある。宣教も経営もうまくいかない時もあれば、思いのほか順調な時もある。私と妻は、うまくいっている時ほど互いに警告し合う。「この成功を決して誇ってはならない。これを始め、支え、導き、祝福しておられるのはイエス様なのだから。この収益を主は我々に信託して下さったのだ。だから主の栄光と御用のために惜しまずお捧げしよう。これをあたかも自分たちの功績であるかのようには絶対に口にしてはならない」と。
なぜ、私たちはそのように言い合うのか。要の石が引き抜かれることを恐れるからである。そんなこんなことは起こり得ないか。そう安心することを信仰と思っているのか。ではなぜイエス様はこのような警告を語っているのか。そしてこのような結果が起きるとすれば、誰に起きると言っているのか。主から多くを与えられ、信託されていながら、その主のものを主に返さなかった者たちにではないか。
信仰者はこの種の恐れだけは持っているべきであると信じる。神を畏れる敬虔とはそういうことであると。
しかし、人は恐れてはならない。罠にはまりやすくなる。敵の動きが見えなくなる。そして騙されやすくなる。
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18)とある。なぜ日曜日の集団礼拝(Corporate Worship)だけでなく、毎日365日、個人礼拝(Personal Worship)を持つべきか。このためである。
日々、主の愛を豊かに受け、愛を吸い上げ、愛に満たされている人は、堂々としている。何があっても怖じ気づかない。
豊かに言葉と愛を注がれた子どもと、そうではなかった子どもは、傾向として、異なった人生を歩む。これは我々キリスト者も、同じである。
今日のこのみことばは、ユダヤ人指導者たちに向けられたものであるが、私たちキリスト者個々人、そして教会にも、深く刺さる言葉ではないか。私には刺さった。うまいパンだ。このパンを今日何度も反芻したいと思う。