「QT/デボーション

マタイの福音書21章22〜32節

    今日の箇所は、ぶどう園に行って働くよう命じられた二人の息子の話。「親父、今日は勘弁してくれ。無理だ。」と一旦断ったが、申し訳ないと思ったか、結局行って働いた兄。「分かったお父さん、行くよ。」と言って、行かなかった弟。

    少し文脈からずれるかもしれないが、昨日読んだある記事を思い出した。時事がこういう気持ちを誘発するのだろう。あるクリスチャン女性が、特定のキリスト教教理を激しく攻撃している。「そういう教理を信じたせいで今のような社会を教会が作ったのだ。」「その教理は、教会に社会から天国への逃避主義を生んだ。社会を良くする使命を放棄させた。」

    それは当たらないということを私は立証できると思う。勿論、異端的な教理には目を見張らねばならないが、長いキリスト教の歴史を紐解けば、この手の批判は初めてではない。

    先日、『教会とホロコースト』という書について紹介したが、あの時代に起きたことは、ある事実を明らかにした。

    当時も今と同じように、多くの神学主張、教理主張が存在しており、多くの教派が世界中に存在した。そして、それぞれの教派の中に、ユダヤ人迫害に加担した者、傍観した者、そして危険を冒して救済に立ち上がった者たちがいた。もちろん、その比率を単純に比較することはできないし、地域差や政治状況、教会の置かれた立場によって事情は異なっていたであろう。だがある特定の教理や教派が、その差をもたらしたという説明はできないように思う。

    私は、この事象から、最終的なキリスト者の「行く」のか「行かない」のかの分かれ目において、教理の影響が最大だとは言い切れないと思っている。

    背景にある教派、教理が何であったかはさておき、ユダヤ人救済者たちの証言を読むと、ぼんやりと彼らの行動原理が見えて来る気がした。もちろん、その動機は一様ではなく、良心、人道的責任、隣人愛、個人的な関係など様々であっただろう。だが彼らの証しには、似たような響きがあるように思われる。

    「イエス様ならどうするだろうか?」

    多分こういうことだろうと私は思う。彼らにあって、他者に無かったものは、生ける神・復活のイエス様との「個人的な関係(友情)」だったと思う。

    これは、何年も前にお会いしたイエス様ではなく、日曜日に牧師が語っていたイエス様でもなく、「今朝私がお会いした私の愛するイエス様」なら、私に何をお命じになるだろうか?という自問である。

    私はこの攻撃的な記事を書いた女性クリスチャンの教理グループにも、このような神様と個人的で親密な関係を構築していらっしゃる方々がいると信じる。そして彼女が攻撃している教理を尊重する方々の中にも、そのような神様との生きた個人的な友情を喜び、楽しみ、生きている人たちがいると信じる。

    そして、さも正論と聞こえるような言葉を並び立ててはいるが、結局は「行かない」キリスト者たちが、両側にいるとも思う。そして私もその一人になり得るという事は、いつも弁えている。

    友情とは、麗しいもので、ほぼ永遠的に深め得るものである。神との生きた個人的な関係と友情も、少数の人しか知らない親密の域を秘めている。そして親密な友情というものは、その友のために命さえも、という種の愛と信頼と勇気を自然と育む。

    私が所属する宣教団体の創設者が、ある時、数百名の牧師たちの前でこのようなことを勇敢にも語った。

    「あなた方が行動しないのはなぜか。我々人間は、あのエデンの園の事件以来、言い訳が巧みになった。蛇がささやいたせいです……あの女が私をそそのかしたんです……我々は今も様々な巧みな言葉を並べ立てる。だが要するに、何をどう語ろうが、結局は、あなた方が行動しない理由は、あなた方が臆病者だからです。」

    行かないと言って、行った兄。 行くと言って、行かなかった弟。前者の言葉は不正解である。だが行動は正解だった。後者の言葉は正解であるが、行動は不正解であった。

    その神学と教理を満点だと言えないかもしれない。だが、その行動は正解である、という結果は選べる。そしてそのための条件は、「さっきお会いしたイエス様」なのだと思う。だからいわゆる「禅問答」が、イエス様との対話以上に頻繁であり、優先的であることは避けるべきである。勇気の伴う友情はその方向では養われない。

    神は私たちに「個人的で生きている関係と友情」を求めておられる。不断で親密な友情を。

    今朝、QTの終わりに、「午後、もう一度会おうよ。サマリアで君を待ってるよ。あの井戸で落ち合おう。」とイエス様から言われたような気がした。すごく幸せな気持ちだ。

    マタイの福音書21章23〜32節が開かれた日本語の聖書ページ。ぶどう園の二人の息子のたとえの箇所に赤い下線が引かれている。

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