私にとってこのテーマは個人的に重い意味を持つ。私の父が熱烈な「優生思想」を持った医師であったからだ。「優生思想」は、本書でも言われているように、ホロコースト以降も「ソフト」な形で現代社会に生き残った。また職業や研究など携わる分野が何であるかによっては、その人の「優生思想」が、ナチスのそれに近い程に絶対化する場合もある。医師という職業は、もしかしたらそうなり易い職業の一つかもしれない。
優生思想を絶対視すると、人は「悪魔の所業」としか思えないような蛮行さえ、個人や社会を良くする現実的で効率的な手段だと本気で考え始める。実際はどれほど非科学的で、恣意的で、独善的なものであるか気付かない。不幸にも私の父は、その方向へと呑み込まれてしまった一人である。彼は、高校生時代にヒットラーの『我が闘争』を読み、ここからナチス思想に傾倒するようになった。そして神戸大学医学部でいよいよ「優生学」と出会い、それを絶対視するようになった。他の学生たちと違って彼にはナチズム思想という下地があった分、極端な信奉者になった。晴れて医師にはなったが、人種差別、国籍差別、学歴差別、職業差別の意識は、絶えず言葉と態度に現れ、あらゆる人間関係を壊していった。やがてアルコール中毒状態に陥り、平行して暴力的になっていった。
我が家にはナチス関連、旧日本軍関連の書籍が溢れていた。父は泥酔するとナチスや旧日本軍の軍歌をレコードで大音量で鳴らした。どこから入手したのか、ナチスの象徴である鉤十字の勲章、SS将校が所有していた短剣などのコレクションが彼の書斎には飾られていた。
私たち子供は、幼少期より恐怖から父に寄り付くことはなかった。ある日、度重なる暴力の果てに、今度は不倫が発覚した。母は遂に神経衰弱の果てに服毒自殺を図った。薬物は医師である父が母に手渡したものであったということが後で発覚した。本人は否定するが自殺幇助のようであった。優生論者にとって命とは軽いのだ。母は一命を取り留めたが、この事件の影響は、私たち子供たちの心に深い傷を残すことになった。このような「得体の知れない闇」(当時はその正体が優生思想だとは分からなかった)が支配する日々は、私が16歳で家を出るまで続いた。
これは特例だと思われるだろうか。私はこの体験を振り返って二つの意味で、特例だとは思わない。
先ず、人は信じた信念の通りになるからである。これはほぼ自然法則と言って良いのではないか。インプットした通りにアウトプットされる。Garbage in, Garbage outである。 我が家に起きたことは、そういう意味では、何も驚き怪しむべき事象ではない。起こるべくして起きたに過ぎないのだ。
二つ目に。進化論と優生思想を絶対視すれば、その人間を通してどのような悪魔が解き放たれるかは、歴史が繰り返し証明している。我が家は、それを踏襲したに過ぎない。我が家に起きたことは、過去に起きたことであり、この思想が支配する場所ならどこにでもその悪魔は現れる。本書の著者は、東北大学の教授であり、ご自身は進化論者である。純粋な科学者だが、彼は憚らず「悪魔」とか「魔物」という言葉を使う。これ以外に過去の事象を表すに適した言葉がないからだろう。
特例ではないという意味は、誰にでも起き得るという意味であり、近隣で既に起きているかもしれない、その過程はもう始まっているかもしれないという意味である。本書はこのように日本の実態を暴露している。
…日本でも1948年から1996年まで、母体保護と不良な子孫の出生を防止する目的で、強制不妊手術を含む優生保護法が制定され2万5000人を不妊化したとされる。前身は1940年に制定された国民優生法で、ナチスの遺伝性疾患子孫予防法をモデルにした法律とも言われる…
本書に書かれてはいないが、日本の死亡原因第三位は「堕胎」である。これも全て優生論思想と無関係ではない。個人の意思でやっているのか、国策としてやっているのか、或いは殺すタイミングが遅いか早いかの違いである。
…1939年、ついに一線を越えたナチスは、先天的障害を持つ子供の安楽死プログラムを実行した。優生政策をエスカレートさせるナチスは1940年、ブラントらが率いるT4作戦を開始した。身体的・精神的障害者、ユダヤ人、能力低下と判断された犯罪者など、推定20万人が医師団の手でガス室や薬剤注射により殺害された。安楽死による優生政策の開始は、その後のホロコーストへの道を開いた。1930年代後半、過数化する優生政策とユダヤ人迫害を前に、我に返った米国の優生学者はナチスと距離を取り始めた。ようやく彼らは自分たちが抱いていた夢が、狂気に満ちた悪夢だったと気づいたのである…
…ナチスの崩壊とともに魔物は去ったが、決して地上から消滅したわけではない。むしろ時が来ればいつでも復活すると考えたほうがよいだろう…
…優生学とその基礎になった進化学が成長し、ナチスの優生学へと至るストーリーは、科学に基づく社会運動から純粋な悪への滑落が、どのように起こりうるかを示している。惨劇の再発を防ぐために重要なのは、滑落を導いた個人の非難や否定よりも、その過程の分析である。優生学運動に従事した人々の大半は、それがナチスの罪過につながる坂道とは知らずに、その時代、その社会、その階級の価値観に従い、正義と善意に導かれて行動しただけであろう。そもそも私やあなたが、今まさに新しい悪魔をそれと気づかず育てているかもしれないのだ…
…ヒトラーは『我が闘争』に、こう記している。「健康状態が悪く、重度の障害を持つ人々を世界に生まれてこないようにするのは、かなりの程度まで可能である。私は、民族にとって価値がない、あるいは有害な子孫を産む可能性が高い人々の繁殖を防ぐために制定された、米国の州法に関心を持ち、研究してきた。」ナチスが手本にしたのは米国だったのである。移民法を制定して人種差別政策を進める米国を、ヒトラーは称賛している。彼らのモデルは、米国国民の進化的な向上を目指す優生学運動と人種差別政策だった。米国で進められた強制不妊手術、社会的不適格者の収容、安楽死に関する議論や、人種差別政策を、忠実に移植したのである。この枠組みから始まった政策が、独裁政権下でエスカレートしたうえに、ユダヤ人差別と結びついた結末が、ヒトラーとナチスによる600万人を超えるユダヤ人虐殺であった…
…魔物を地上に招き寄せたのは、『種の起源』と、ある人物の出会いだった。1859年、『種の起源』を読んだゴルトンの脳裏に、恐るべきアイデアが閃いた。人為選択で動物の品種改良ができるなら、人間の品種改良もできるはず、と禁断の着想を得たのだ。1883年、ゴルトンは『人間の能力とその発達の探究』(Inquiries into Human Faculty and Its Development)と題する著書を出版し、その中で初めて「優生学」(eugenics)という用語を創った。ゴルトンは優生学をこう定義した。「社会的な管理下で、将来世代の人種的資質を肉体的にも精神的にも向上または劣化させる可能性のある制度の研究」。のちにもっと簡潔に、「優生学とは、民族の先天的な資質を向上させるあらゆる効果を研究する科学であり、その効果が最大限に発輝されるよう導くものである」と定義している…
…グラントは1916年に出版した著書『The Passing of the Great Race』にこう記している。「自然の法則は、不適格者を抹殺するよう求めている。人間の命は、それが社会や民族に役立つ場合にのみ価値がある」。このグラントの著書は、オズボーンが序文を寄せ、第26代大統領セオドア・ルーズベルトの推薦文が表紙を飾っている。この本を読んだ若き日のヒトラーは感激し、グラントに感謝の手紙を送った。ヒトラーはその本を「私のバイブルだ」と述べたという…
改めて思う。我が家に起きたことは特例ではない。起きるべくして起きたことだったと。もし父がナチズムと出会っていなければ、そして優生思想と出会っていなければ、彼自身も、私たち家族ももっと幸せな日々を生きることが出来たであろうと私は確信している。
本書は、最終チャプターを、「目的が間違っていた」ことに諸悪の原因があったという結論で閉じている。大著なのにどうしても、締めが弱いという印象が拭えない。それはやはり科学とは、どこまでもHowを問う試みであり、Whyという問いと向き合うことに躊躇が働くからかもしれない。それは宗教の領域だと切り離されるのだろうか。
16歳の私にはそのような縛りはなかった。家を飛び出して以来、様々な国々を訪れ、様々な価値観の人々と出会い、自由気ままに見聞を広げた。非科学的、非生産的としか思えないような意見主張にも耳を傾けてみた。不幸に見える人、幸福に見える人、幸せを奪う人、幸せを与える人、偽善的な人、聖人のような人と出会った。戦場も訪れた。虐殺の現場にも立ってみた。あからさまな人種差別も経験してみた。その私なりの幸福探しの過程で、「やはり」と常に思わされ続けたのは、前述の「人は信じた信念の通りになる」という自然法則の確かさだった。
結果的に私も、父と同様、一冊の書物を通して、「信奉者」になった。もちろんそれは『我が闘争』ではない。色々な意味で、それとは対局にある書である。「闇と光」のように対局にある書である。それは『聖書』であった。
私は父と違い、無神論ではなく有神論者となり、優生論者ではなく、全ての命に優劣があるとは信じない立場を選んだ。障害の有無や身体や知性の能力の高低を問わず、どの人間も神に愛され、歓迎され、かけがえのない尊い存在であると信じている。非科学的、稚拙と言われようとも、今の基督者としての生き方に私は大いに納得をしている。
これは私が計画していたことではなく、想定さえしていなかったことであるが、「やはり」と思わされる出来事が最近あった。「やはり」人の人生とは、信じた信念の通りになるものだと。今年の二月、養子縁組の話しを持ちかけられたのだ。しかもダウン症を持った新生児である。実親は、障害児と見て早々に育児を放棄したとのことだった。
私と妻は神に祈った。五十を過ぎた私にこの責任を担い切れるだろうか。何より実子の長男と同じようにこの子に愛情を注げるだろうか。そうならなかったら、それこそこの子にとって我が家は生き地獄になってしまうだろう。親から愛を感じられないということは、精神の飢餓に陥るということである。
しかし私と妻は祈った結果、同じ結論に至った。心に満ちたのは「平安」という言葉でしか表現出来ないものだった。この孤児を私たちが引き取ることを神は望んでおられると確信した。未知数、想定範囲外のことは確実にある。そういう意味では極めて非科学的な行動を選択したことになる。だがこれがWhyに対する答えを持つ者の強みであり、特権のような気もした。
この子を私は帆愛(はんな)と名付けた。神と人に豊かに愛され、それを力に人生の大海原を前進していって欲しいとの願いを込めた。また哲学者ハンナ・アーレントも意識した。ナチスによるユダヤ人殲滅作戦を指揮したアイヒマンの処刑を最後まで反対したユダヤ人人道家である。
何よりも、はんなとは、ヘブル語で「神の恵み」を意味する。息子の名前にも恵という字を入れた。人間にとって、神の恵み以上に、人間を「最も人間らしくさせる要因」は他に無いと私は信じている。
先日、帆愛は7ヶ月を迎えた。我が家に来たときよりもよく泣き、よく笑い、体も大きくなった。心臓の穴も徐々に塞がり、医師からは順調に成長しているとありがたい報告を頂いている。
何よりも神に感謝していることは、彼女が本当に私の娘になったことだ。恐れていたことは生じなかった。偏愛の誘惑はない。可愛くて仕方がない。ダウン症児の中絶率は90%以上である。よくぞその狭き生命の門を潜り抜けてきた、よくぞ生まれてきてくれた、君は奇跡の子だ!と毎日喜びと感動をもらっている。思えば、今が、私の人生で最も穏やかで幸福な日々のような気がしている。
人は信じた通りになる。
その自然法則の確かさを実感しながら、改めて思う。だから私たちは、信じる対象を厳選しなければならないと。神の恵みが流れ入ってくるような信念もあれば、魔物を目覚めさせその支配を許してしまうような信念もある。
最後に、本書を通して繰り返し実感したことを記録したい。それは「創造論者」或いは、「創造科学論者」であることの幸いである。自分が何から、どれ程、「救われている」かということを思い知らされる読書体験だった。神なき世界を説明するという試みがもたらす大混乱を、そしてそれが生み出す猛毒、「ダーウィンの呪い」を私は知らない。