書評

「永遠」αἰώνιος(アイオニオス) を巡って

    P.113より。

    「永遠のさばき」は、イエスご自身が用いた表現です。それは、さばきの日がどのようなものであるかを示した聖書箇所に由来しています。その時、今では王として天に戻られた人の子が、羊とやぎを分かちます(つまり、ニ種類の人間たちを互いに分別するということです)。やぎに対する御子のことばは、「のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」です。それから彼らは永遠の懲罰に向かいますが、正しい人たちは、永遠のいのちに入ります(マタイ25:41、46)。これらの箇所に用いられている「永遠」はギリシャ語のアイオニオス(αἰώνιος)で、何度も指摘されているように、その意味は「終わりのない」ではなく、「今現在の秩序とは異なる『やがて来る時代』に関わるもの」です。しかしイエスとユダヤ人の認識では、「やがて来る時代」は終わりのないものでした。したがってアイオニオスは、別の意味が示されない限り、それが言及しているものが「永続するもの」であることを意味します。マタイ25:46においてイエスは、羊が入る永遠のいのちと、やぎが入る永遠の懲罰について語っていますが、その際、それらの並行性を明確に認識しています。ですから当然ながら、永遠のいのちが終わりのないものと理解されるのであれば、永遠の懲罰も終わりがないというのが自然に導かれる唯一の理解です。

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    私自身、実際に万人救済主義を唱える人物が、この点を根拠に自身の主張を擁護しようとするのを聞いたことがある。万人救済主義や条件的不死性を唱える人々は、マタイ25章の「永遠」を意味する αἰώνιος(アイオニオス) という語について、必ずしも「終わりなき永遠」とは訳せないと主張する。というのも、その語の語源である αἰών(アイオン) には、「時代」あるいは「世」という意味があるからだという。したがって、ここは「やがて来るべき時代に属するもの」というニュアンスで理解すべきだ、というのである。これは彼らの常套的な主張の一つだと言ってよい。

    これに対してパッカーは、聖書を読む際により重要なのは、その語の語源ではなく用法であると指摘する。すなわち、その語がその文脈の中で、どのように使われているかということである。

    たとえば、「世」を意味する κόσμος(コスモス) という語は、ヨハネ3:16では神の愛の対象として用いられているが、Ⅰヨハネ2:15では、信仰者が愛してはならない対象として用いられている。では、「世」とは愛すべき対象なのか。それとも愛してはならない対象なのか。答えは、文脈次第である。語の意味は、語源だけで機械的に決まるのではない。

    同じことは、マタイ25:46のαἰώνιος(アイオニオス) にも当てはまる。そこではイエスは、「永遠の刑罰」 と 「永遠のいのち」 を、同じ語 αἰώνιος(アイオニオス) を用いて語っておられる。通常、このように同じ文章、同じ文脈で、同じ語が並べて用いられる場合は、同じ意味領域と理解するのが自然である。

    だが万人救済主義者や条件的不死性の立場を取る人々は、「永遠のいのち」のαἰώνιος(アイオニオス) を「永遠」と解することには反論しないが、「永遠の刑罰」のαἰώνιος(アイオニオス) については、誤解釈であると主張する。片方だけ意味を変えようと試みる。これは釈義的に無理がある。

    パッカーの主張は単純である。もしイエスが「永遠のいのち」を終わりなきいのちという意味で語ったなら、それと同じ意味をもって、「永遠の刑罰」もまた終わりなき刑罰として語ったと読むのが自然である、というものである。

    本当は、そもそもそういう議論ではないのかもしれない。要するに「不快」なのだろう。永遠の刑罰とか、地獄という概念が。精神衛生上良くないという「善意」が動機なのではないか。善意は良い。だが、そうであるならばこれは聖書とは無関係の議論であると結論付けねばならない。これは道徳問題であり感情問題だ。論じ合う理由がない。

    最近もある人物のブログを読んで、つくづく思った。不快なんだろうなと。「地獄からの救い」的なキリスト教は、本来のものではない、アメリカの福音主義者たちが長年かけて作り出したものだという内容であった。聖書は裁きや地獄については「僅か」にしか触れていない、そのような概念は、教会を長年苦しめてきた不用物である、というような誰かの引用も堂々と掲載されていた。

    ならば安心して過ごせるクリスチャンライフのために、聖書のその僅かな不快な部分を黒く塗りつぶすと良い。まず、実際はその箇所が僅かではないと気づくはずである。そして次に、聖書は人類救済計画の書ではなく、誰が誰を何から救うのか、何が何だかさっぱり分からない書物になるだろう。それを誰が何の目的で読もうと思うだろうか。ましてや安心が欲しいなら。

    パウロは、「見なさい。神のいつくしみと厳しさを。」(ローマ11:22)と言う。両方を見よと。異邦人クリスチャンよ、倒れた者(イスラエル)の身に下った神の裁きの恐ろしさを、謙虚に、慎んで、畏れかしこみ見よと。神は、ご自分の民にさえ、かくも凄惨な裁きを幾度もお下しになった神である。そういうことがお出来になる神なのである。「愛なる神がそんなことするはずがない」と神を侮ってはならない。思うべき限度を超えてはいけない。(ローマ12:3) 神の慈愛を想い、同時に神の厳しさ、恐ろしさをも受け止めなければならない。どれほど不快でも。そうでなければ、今は慈しみによって立ってはいるが、次は自分が倒れることになるかもしれない。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(1コリント10:12)

    本の表紙の画像です。 上部に「J・I・パッカー神学小論集 信仰義認と永遠の刑罰」と縦書きで書かれており、著者は「J・I・パッカー」、編訳者は「長島勝」と記されています。 背景は青と黄色の帯状の模様が重なったデザインで、下部には赤い帯の上に白抜き文字で「地獄は永続するのか?信じない魂の運命は?」と大きく書かれています。 出版社名「いのちのことば社」と価格表示も見られます。

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