恵みとは、本来ならば
「受けるに値しないもの」
と理解するならば、
それが与えられなくても、
それが奪われても、
それを失ったとしても、
「不当な扱いだ」とは決して
理解されることはない。
恵みとは、本来
「私のものではない」と
理解するならば、
主のものを主に還すことは
右のものを左に移すごとく
自由に出来るはずである。
恵みを恵みとして受け入れ
恵みを恵みとして維持する
ことが出来れば
キリスト者は
いつまでも自由である。
もし「不当だ」と
感じる自分がいるならば、
もし「もったいない」と
感じる自分がいるならば、
私たちが受け取ったものは
実は恵みではなかった
のかもしれない。
それを受ける資格が
自分にはあると
錯覚したのであれば、
それは恵みではなく
「報酬」だったのである。
「権利」だったのである。
ならばその感情は
当然のものである。
報酬も権利も、
獲得するにしても
与えられるにしても
「自分のもの」なのだから。
だが恵みは報酬ではない。
恵みは功績ではない。
恵みは権利ではない。
そして
恵みは慈悲ではない。
恵みは慈悲よりも
遥かに深淵である。
本物の恵みに触れられるならば、
人は二度と同じ
生き方が出来なくなる。
恵みとは、
与える義務を全く有さない
者からの
受ける資格を全く有さない
者へのプレゼント…
ではない。
これは慈悲である。
恵みとは、
与える義務を有さない
どころか、
剥奪する権利、資格、
理由、義務、そして感情を
全面的に有する者が、
受ける資格を有さないどころか、
返済すべき義務、理由、
証拠、責任を、
あらゆる法に照らしても
全く弁解の余地なく
有する者に対する
恩赦であり、
善意であり、
愛である。
私に施す義務はない、
私に何か益をもたらしてくれた
訳でもないホームレスに、
もし私がお金を施すならば、
それは慈悲の行為である。
でももしそのホームレスが、
自分の子供を殺した
犯人だと気付いたならば…
溢れる憎悪に
心が支配されたならば…
しかしそれでも私が
笑顔でこの犯人を抱擁し
風呂に入れてやり
新しい衣服を調達し
全財産をその手に握らせ
人生をやり直せるように
幸せになれるように
共に何年も歩んでやり、
遂にその犯人の
父親になるなら…
これならば恵みである。
でも恵みとは、
その享受者の手の中で
ただの慈悲に変容することがある。
心を込めたプレゼントが、
「こんなものをもらってしまった。
お返しをどうしようか…」
と誤解されるように。
恵みを
報酬にしてはいけない。
功績にしてはいけない。
権利にしてはいけない。
慈悲にしてはいけない。
恵みを恵みとして
維持せねばならない。
恵みが恵みではなく
別物に変容するのは
自分の有罪性と
それが意味する深刻さを
希釈するからである。
自分は有罪であると
弁えていなければ
どうして神の贖罪に
感謝が溢れるだろうか。
自分が本来受けるべきは
極刑であると弁えていなければ
どうして神の恩赦と
その賜物である
永遠のいのちに
感激が溢れるだろうか。
希釈を誘う甘言に
靡いてはならない。
そうでないと
恵みも、それと共に賜った
キリスト者の自由や喜びも
全て矮小化される。
そうならぬように
「恵みの良き管理者」
であるようにと私たちは
主から命じられている。
私はしばしば、
自分の救いの証しを、
人に頭を下げて
聞いて貰っている。
年間1500人くらいの方々に
お願いをして聞いて貰っている。
半分は自分のためにである。
恵みが変容してしまわないように
主は、その保存方法を説いておられる。
動態保存である。(マタイ25:14–30)
静態保存ではなく。
自分の身に起きた
神の救いの恵みが
どれほど本来受けるべき扱いから
逆転的なものであったかを
忘れないために
十字架という神の選択の
何と異常で、何と奇行的なものか。
その驚愕が過去のものとなり、
もはや神の恵みが
Amazingではなくなって
しまわないために
恵みを伝えるのである。
信仰は聞くことから始まるが
信仰は、その喜びは宣べ伝えながら
内に外に増殖増大する。
伝道は、初めの愛と
初めの涙が枯れないために
大いに効果がある。
恵みをこのように語る。
神の本質は
愛と義である。
愛なる神は私たちを
赦したいのだ。
神の国に
何も言わず
何も無かったかのように
迎え入れたい。
しかし義なる神は
私たちの罪を
無かったことには
決してなさらない。
神は罪に対し一歩も
引かない正義者である。
神は全存在で罪を憎まれる。
「妥協する神」という
言葉は矛盾である。
神は完全だから
神なのだから。
では神は愛を
優先にするのか。
それは私たちの罪に目を
閉じるということである。
その選択はない。
では義を優先にするのか。
ならば愛と憐れみを神は
殺さねばならない。
この選択もない。
愛も義も
神の本質なのである。
どちらを選んでも
神は自らを否むことになる。
では神はこの一見
解決不可能に見える
問題をどのように
解決されたのか。
神にしか出来ない
方法によってである。
神は自ら
人となり(ヨハネ1:14)
私たちが本来
負うべきところの十字架、
罪の負債、罪の責任を
自ら進んでご自身の身に
お受けになられた。
十字架…
愛を優先にして
義を妥協したという
話では決してない。
十字架…
義を優先にして
愛を殺したという
話でもない。
神は、十字架という
一つの手段で、
二つの永遠の要求
即ち、愛であること
そして義であること
その両方を、同時に、
完全に、充足された。
イエス・キリストは
十字架の苦しみの果てに
遂に息を引き取る瞬間
こう言った。
「完済した。」(ヨハネ19:30)
十字架は妥協ではない。
代払いである。身代わりである。
十字架は神の二つの
本質のこの上ない顕現であり、
神と人類の和解のための
完璧なソリューションである。
これにより、
罪ある人類の神に対する
負債は、一銭残らず
キリストによって
完済された。
何故救いは無償なのか。
なぜ賜物・ギフトなのか。
代価が完済されたからである。
だからこれを受けるにあたって
あなたが払わねばならない
余地はもはや一銭も残っていない。
これが福音の福音たる理由である。
この十字架という
事件の真意は、
その刑場にいた者たち
は無論、預言を
聞いていた弟子たちでさえ
理解していなかった。
その後に起きる
更なる大事件までは。
何が起きたか。
イエスは死から三日後に
蘇ると何度も予告していた。
そしてそれが実際に
起きたとき、弟子たちは
ようやく十字架が
本当に神ご自身による
人類救済のための
究極の御業であり、
人類との和解のために
差し出された神の手であり、
今や誰でもその手を握るなら
無条件で罪の赦しを受ける
ことが出来る…
その「道」が開かれたと悟った。
神は、このような
代価を払ってでも
我々を滅びの道から
救うことを願われた。
裁きを下す代わりに。
そうすべき責任、
そうすべき義務、
そうすべき権利、
そうすべき憤怒、
全てをお持ちの神がである。
だからこれは慈悲ではなく、
恵みの話なのである。
そして時を経て、
そして時満ちて、
今、あなたにも
この福音のメッセージが届いた。
偶然ではないと私は信じたい。
私に届いた時もそうだった。
なぜあのタイミングだったか。
神は私たちを見ておられるのだ。
神はあなたを
愛しておられる。
あなたの今を、
良く知っておられる。
神はあなたに問うておられる。
あなたはわたしの目に
高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
わたしはあなたのために
プレゼントを用意した。
これは無償である。
支払いはわたしが済ませた。
だからもはや望むならば
誰でも受けることが出来る。
わたしは願う。
あなたが罪の赦し、
わたしとの和解、
死で終わらぬ永遠のいのち
というプレゼントを
プレゼントとして
受け取ってくれることを。