書評

永遠の懲罰という可能性に対して

    P.112に、W・G・T・シェッドという神学者の引用を見ることが出来る。パッカーは、それを各所から、拾って繋げて引用しているので、原文を読みたいと思い、調べたら見つかった。

    https://www.onthewing.org/user/Esc_Endless%20Punishment%20-%20Shedd.pdf

    1. 「終わりなき懲罰の教理を最も強力に支持しているのは、人々の贖い主であるキリストの教えである。」の該当箇所 (PDF第2章「聖書からの論証」の冒頭部分) 「終わりなき懲罰の教理を最も強力に支持しているのは、人間の贖い主であるキリスト自身の教えである。この教理は、パウロ書簡や聖書の他の箇所にも明白に教えられているが、受肉された神ご自身による明確で、繰り返しの言明がなかったならば、このように恐るべき真理が、果たしてキリスト教世界における信条の中で、かくも常に支配的で、顕著な位置を維持することができてきたかは疑わしい。使徒たちは、この厳粛な主題について、彼らの神なる主、また師であるお方に比べると、はるかにその描写の詳細を控えめにしている。また強調の度合いもはるかに弱い。それも当然である。というのも、罪のゆえに魂を永遠の悲惨へと宣告する権利を持ち、またその宣告を下すことをあえてなし得るのは神のみであるからである。またその宣告を執行する権利を持ち、またそれをあえてなし得るのも神のみである。同様に、この宣告の本質とその帰結とを描き出す権利を持ち、またそうすることが許されるのも神のみだからである。失われた者たちの苦しみを描写する恐るべき比喩の大半が、私たちの主また救い主の語られた言葉の中に見出されるのは、このためである。主はみずから警告のラッパを鳴らす務めを引き受けられた。生きている者と死んだ者との審判者であるこのお方が、終わりなき刑罰の教理を教える責任をご自身で担われたのである。」

    2. 「(キリストが)頻繁かつ真剣に人々に対して警告することはなかったはずである」の該当箇所 (上記引用の直後の段落)
    「もしイエスが、ご自身の警告に見合うほどの現実の危険が将来ないと分かっておられたなら、あれほど真剣に警告されることはなかったはずである。マタイ25章31–46節に記された、さばきの日と最後の宣告についてイエスは語られたのである。これを語られた全知なる主が、最終的には、すべての人が例外なく聖くされ、幸いにあずかるのだと信じておられたはずがない。そのような結末を見込んでおられたはずもない。もし永遠の審判者が、『左にいる山羊』とされる者たちに向かって『永遠の刑罰』を宣告しながら、同一人物たちに、最終的には『右にいる羊』と同じ聖さと幸いに至ると知っておられたのだとすれば、それは虚偽であるだけでなく、馬鹿げた言動である。」

    3. 「イエス・キリストは、永遠の地獄への断罪の教理に責任のある方である」の該当箇所 (序文の後半部分)
    「人間のたましいが堕落し、永遠の破滅に至ることは、想像しうる中で最も恐るべき現象である。神の造られた理性的で自由な被造物の中に、永遠に神への敵意にとどまり続ける者たちがいるという事実は、悲しみと畏怖なしには思うことができない。しかしそれは、有限な自由意志を持つ者の本性からして起こりうることであり、しかもキリストの受肉と贖いの事実に劣らぬ明白さをもって、その啓示の中に示されている。永遠の滅びの教理に責任があるのは、キリスト教の奉仕者でも教会でもない。この教理は、すべての人に宣べ伝えられるべき真理として、主キリストご自身が最後の大宣教命令において、教会とその奉仕者たちに委ねられたのである。」
    パッカーも、「ただし、その懲罰の内実が、正確にどのようなものであるかは、私たちには知り得ない」(P.109)という事実には合意している。私も合意である。
    だから最終的には、いつも私はこう思うのだ。人間には知り尽くし得ないのであるとすれば、ここからは可能性の話なのだと。だから、永遠の懲罰がイエスの描写通りであると信じて、そのつもりで生きたキリスト者が、「何だ!そうじゃなかったじゃん!」と、未来の世界で叫んでいるかもしれない。或いはそんなものは無いと信じて、そのつもりで生きたキリスト者が、「何だ!有ったじゃないか!」と叫んでいるかもしれない。だが両者が味わう感情は全くことなるものである。前者が安堵を。後者が永遠の後悔である。私は万人救済主義や条件付不死性のような「ないかもしれない」という可能性寄りの教理に、安堵を感じる仕組みが分からない。これらを信じた結果、「あるかもしれない」という可能性が消える訳ではあるまい。それは歴然と横たわったままである以上、こんな危険な博打を私は打てない。それをするくらいなら、「騙されたい。」人生を全部そこに投じたのに、「取り越し苦労だった」という結末は、全然耐えられると思う。だが、逆の結末は絶対に御免被りたい。私がセカンドチャンスも信じないのは、教理的な理由だけではない。不忠実という結果になるくらいなら、騙されたいからだ。「山中さん、あれだけ言っただろう、僕が正しかったやろ」とその日、百万人から罵倒されたい。それは耐えられる。だが、逆の結果は絶対に御免被りたい。「あれだけ言っただろう!」を百万人から聞かされても、主の口からは聞きたくない。その日、主に何と私は申し開きすることができるか。その後悔の念は、想像もしたくない。

    主から言われたいのは「よくやった、良い忠実なしもべ」(マタイ25:21)である。この喩えは、そのように言われるしもべと、何も言われないしもべの話ではない。これは「よくやった」と言われるしもべと、「外の暗闇に追い出せ」(30節)と言われるしもべの話である。 ないと思いたいのは皆同じである。だかその安堵のために、このような博打を打つ者が、最後に主から「よくやった。良い忠実なしもべ」と呼ばれるのか。逆ではないのか。 http://www.onthewing.org

    本の表紙の画像です。 上部に「J・I・パッカー神学小論集 信仰義認と永遠の刑罰」と縦書きで書かれており、著者は「J・I・パッカー」、編訳者は「長島勝」と記されています。 背景は青と黄色の帯状の模様が重なったデザインで、下部には赤い帯の上に白抜き文字で「地獄は永続するのか?信じない魂の運命は?」と大きく書かれています。 出版社名「いのちのことば社」と価格表示も見られます。

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