QT/デボーション

マタイによる福音書 22章23〜33節

    復活を信じないサドカイ人たちはでは何を信じていたのか。「人は死んだら、それで終わりである。生命の続く限りが信仰の舞台である」ということのようである。現代における無神論者、唯物論者たちの思想(生命の続く限りが人生である)に近い。

    イエス様は、それは「聖書も神の力も知らない」が故の誤解であると指摘する。そして人間の死後の世界を見てきたかの如く描写する。人はやがて死ぬ。だがこれで終わりではない。人は一度死に、死後に裁きを受けることが定まっている。(ヘブル9:27)

    ある者は永遠の滅びに、ある者は永遠のいのちへと捌かれる。永遠のいのちへと捌かれる者が見る世界は、現状とは全く異なる回復された状態となった「新しい地」である。それは「新しい天、新しい地」(2ペテロ3:13)と分けて表現されている以上、物理的な世界である。そこに新しい朽ちぬ肉体を帯びて復活をする。

    そこではもはや「めとることも嫁ぐこともない」と聞くと少し寂しく感じるかも知れないが、そこではもはや補完関係は無くなるということである。精神的にも肉体的にも不足がなく、結婚関係以上に、幸福で喜悦溢れる神を中心とした関係に満ち溢れている世界ということである。

    全ての苦しみ、悲しみ、病、飢餓、犯罪、戦争、孤独、離別、不和、そして死が終わる。人間の全ての物理的、精神的戦いが終結する。エデンは神が意図した世界の始まりだった。そのエデンの回復と完成を見るのである。

    サドカイ人の信仰は自己矛盾に満ちている。「信仰は、望んでいることを保証」(ヘブル11:1)するものである。何も望んでいないのになぜ信仰が機能しうるのか。保証された世界が完成すれば信仰の役割も完了する。死後には関心がないというキリスト教信仰も自己矛盾である。

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