書評

『使徒たちはなぜ耐えられたのか』

    (P.116−119より)

    (永遠の懲罰を語るにあたり)使徒たちは彼ら自身の表現を用いていますが、その内実においては、彼らの主であるイエスが提示した内容を少しも逸脱していません……「利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。悪を行う者の上には苦難と苦悩が下り、神にはえこひいきがないからです。律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。……私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです」(ローマ2:5〜6、8〜9、11〜12、16)。……短いユダの手紙にも、失われた最終的な状態に関するイエスのイメージが記されています。7節ではこう記されています。「その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。」13節は、教会にいる特定の不敬虔な者たちについて「荒々しい海の波、自分の恥を泡立たせるさまよえる星」であると記しています(J.B.フィリップス訳)。この「闇」は、英国欽定訳が示しているとおり、「闇の真っ暗な様(the blackness of darkness)」です。永遠の火については、それが直ちに起こる絶滅を表すイメージだと論じられることがあります。しかし、ユダに記されている「闇が永遠に用意されている」が、「火」についての言及が人々がただちに絶滅することを意味するわけではないことを示しているのは確かです。……黙示録14:9〜11は、「獣とその像を拝む者が誰でも『聖なる御使いたちと子羊の前で火と硫黄によって苦しめられる。彼らの苦しみの煙は、世々限りなく立ち上る』」と警告しています。黙示録20:10には火と硫黄の池が描かれており、悪魔、獣、偽預言者が投げ込まれて、昼も夜も世々限りなく苦しみを受けるとあります。14節では死とよみが火の池に投げ込まれ、「この池は第二の死である」と同定されています。そして15節は一連の啓示の頂点として、こう宣言しています。「いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」。この書については黙示録3・5が語っており、クレッシェンドのように次々と語られる刑罰の表現に鑑み、火の池の中に投げ込まれるということを、何人かの人々が論じているように、終わりのない痛みと悲しみ未満(以下)のものを意味すると考えるのは非常に不自然です。

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    ここでパッカーが確認していることは、使徒たちが、永遠の刑罰について、主イエスよりも柔らかく語らなかったということである。彼らは師の語ったことを薄めず、丸めず、「誰かをつまずかせるかも」というような配慮を加えなかった。これは極めて重大な事実である。

    条件付不死性(消滅説)は、現代人にとって間違いなく魅力的な選択である。「山羊」と選別された者が、永遠の火の中で永遠に苦しむのではなく、最終的に「存在しなくなる。従って意識もなくなる」という説明は、感情的にはまだ受け入れやすい。万人救済論はなおさらである。彼らは「地獄などない」と言う。そう言うと彼らは決まって反論する。「地獄がないとは言っていない」と。確かにそうだ。だが彼らの言う地獄は、矯正の場、浄罪の場としての地獄であり、何らかの理由でタイムリミットの設けられた苦しみの場としての地獄である。その先に回復という希望の光が残っている地獄のことである。用語を間違っているのだ。それを地獄とは呼ばない。煉獄と呼ぶ方がより正確である。

    なぜ煉獄の教えが生まれたのか。感情的に、その方がより受け入れやすいからである。だが、宗教改革者たち(ルター、カルヴァン等)は、この教えを明確に退けた。理由は、聖書にその根拠がないからである。

    万人救済論も、条件付不死性も、煉獄の教えも、「永続する刑罰」というイエス自身の描写よりも、はるかに感情的に受け入れやすい。ではなぜ使徒たちはそうしなかったのか。それがイエスの教えではなく、聖書にその根拠がないということが最大の理由である。だが、そうする必要がなかったことも大きな理由だろう。

    もしあなたが「永遠の刑罰」の教理が、聖書の中で最も「重い」と感じているならば、そして「そんなものはとてもじゃないが担い切れない。感情的に不可能だ」と感じているならば、あなたは使徒たちと対立しない。そう感じない者などいない。ただ、ここからは道が分かれるかもしれない。

    「永遠の刑罰」の重みとは、十字架が意味するものと同重量である。前者が重ければ重いほど、後者の意味も役割も重くなる。実際には、前者の重みとは無限的である。だから十字架の意味も役割も無限的に重い。十字架は世界で最も重いものである。

    だが、その十字架を担いなさいとイエスは弟子たちに命じられた。そうでなければ、あなたは弟子ではないと言われた。感情的には遂行不可能な命令である。だから当然、私たちの中には様々な反応が現れる。担うふりをしているが、実際は指一本触れようとしない者。時々担う者。日曜日だけ担う者。年に数回だけ担う者。

    あるいは、十字架(その意味)を削り、痩せ細らせて、より担いやすい重さへ加工する者。福音の重点を、「再定義」と称して、中心から遠く外れたところへ移動させる者。

    しかし、イエスが語られたままの十字架を担う者もいる。十字架とは、神の聖なる御怒りの顕現である。十字架は、その聖なる神の御怒りを鎮めるための「宥めのささげ物」(1ヨハネ4:10)である。そうなのだとすれば、神の御怒りとは、「何」か。

    それは、我々の想像と知識をはるかに超えたものである。ご自身のひとり子が、いのちと引き換えに、あるいは極言すれば、「死んでお詫びして」ようやく鎮まる父の怒りとは、「何」か。その神秘を問うときに、「聖」という字が浮かんではこないだろうか。英語では unfathomable と言う。我々は神を知らないのだ。知ることが許されたところまでしか他は何も知らない。特に神の「聖」という永遠のご本質をまだ良く知らない。それを垣間見た預言者イザヤは、その瞬間「あああ死ぬ!」(6:5)と叫んでいた。人生で最も絶望的な叫びが、神の「聖」に触れた瞬間に口から飛び出した。彼は何を見たのか。なぜ「ハレルヤ!」ではなかったのか。「聖」とは何か。この無知の故に、神の御怒りを侮っていない人間は一人もいない。それを知る日、今まで無知で良かったと感謝するのかもしれない。

    十字架には、これら全ての意味が込められている。それを削らずに担うなどということは本来、人間にとって耐えられる行為ではない。だが実際に担っている人々がいる。その道を生涯全うする人々がいる。過去にも現在にもいる。なぜそれができるのか。なぜそのような恐ろしいリアリティーを何年も何年も担い続け、信じ続け、語り続けながら、気が狂ってしまわないのか。

    イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(ルカの福音書9章23節)

    「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
    (マタイの福音書11章29〜30節)

    使徒たちだけではない。聞いたことのない方を、どうして信じることができるか、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができるか、もし自分が行って伝えねば、取り返しのつかないことになると、危機感を持って、海を越え、山を越え、私たちに福音を届けてくれた宣教師たちも同様である。彼らは明らかに万人救済論者ではない。条件付不死性信者でもない。ではどうやって彼らは、その重い重い十字架を、すなわち地獄の現実と同居しながら生きてゆくことが出来たのか。

    上の二つの聖句に、十分その答えを見いだすことができるはずである。

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