昨日、嬉しい出会いがあった。ニューヨーク市の教育委員会の人物で、長年高校の校長を務められ、今は100名を超える校長たちの監督指導にあたっておられるという。熱心なクリスチャンだった。著書もお持ちで、多言語に訳されているという。NYCの公立高校では、今も「武器スキャン」が行われている。そういう教育環境に長年身を置いてきた専門家が、「神」を信じる理由とは。そして「神」は教育の基であると言い切る理由とは。
一つの理由は、創造者としての神とは、The First Reasonだからである。一切の「説明原理」だからである。これを「無」にするならば、或いは「曖昧」にするならば、その人間のReasoning は当然の結果として弱くなる。Reasoningとは、「論理的思考」のことだけではない。「道徳的判断」のことでもある。なぜ世界があるのか。なぜ秩序があるのか。なぜ真理や法則や意味が成り立つのか。なぜそれは悪で、それは正しいと言えるのか。人間とは、ただ考える「葦」ではない。考えて「意味を問う」存在である。だから「答えがない」という前提では、問い続けることができなくなる。箴言13:12に、「期待が長引くと、心は病む」とある。
教育の目的とは、このReasoningする力を、人の内に育てることである。そして人間を、動物と違って、単に反応する(Reactive)生き物ではなく、意味を問い続け、生まれてきた目的を探究させ、その方向へと成長することを主体的(Proactive)に本人が「選択」するのを補助する行為である。だから、絶望的な教育現場でも、泰然不動の姿勢で、「答えはある」と確信を持って言ってくれる教育者がいるということは、どれほど若者たちにとって希望であり、Reasoningの継続を助ける力となることだろうか。そしてそのような教育の根幹的な力こそが、The First Reasonである。
最近、ある有名人の自叙伝からの引用を、ある書の中に見た。この人物は、かつてはこのThe First Reasonを信じていたが、ある時からこれを自分の人生から排除することを決めたようだ。そこから彼の心がどのように変化していったか、自ら語っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「私は、過去二、三十年のあいだに、ある点において自分の精神が変化したと述べてきた。三十歳頃まで、あるいはそれ以降においても、ミルトン、グレイ、バイロン、ワーズワース、コールリッジ、シェリーといった詩人たちの作品のような、さまざまな詩は、私に大きな喜びを与えていた。さらに学生時代には、シェイクスピア、特にその歴史劇に、激しいほどの喜びを見出していた。また、かつては絵画も相当な喜びを与え、音楽に至っては非常に大きな歓びをもたらしていたことも述べた。しかしながら、今や長年にわたり、私は詩の一行すら読むことに耐えられなくなっている。最近、シェイクスピアを読もうと試みたが、あまりにも耐え難く退屈で、むしろ吐き気を催すほどであった。また、絵画や音楽に対する嗜好もほとんど失われてしまった。音楽は一般に、私に喜びを与えるどころか、むしろ自分が取り組んでいる仕事について過度に思索を巡らせてしまうのである。美しい風景に対しては、なお幾分の感受性を保ってはいるが、かつて感じていたような、あの繊細で深い歓喜をもはや呼び起こすことはない… 私の精神は、膨大な事実の集積から一般法則を粉砕機のように抽出する、一種の機械へと変わってしまったかのように思われる。しかし、なぜこの変化が、より高次の趣味や感受性に関わる脳の部分だけを衰退させるに至ったのか、私には理解することができない。…これらの嗜好を失ったことは、幸福の喪失である。そしてそれは、おそらく知性にも害を及ぼし、さらに言えば、私たちの本性における感情的側面を弱めることによって、道徳的性質にも影響を与える可能性がある。」
Charles Darwin, Autobiography, ed. Nora Barlow (London: Collins, 1958)
