コラム

「トランプ支持者」だけではない “米国福音派”の深層とは?

    「ため息…」トランプ支持の実情

    「米国福音派」という言葉が、日本でも政治的定義として知られつつある。だが本来知られてほしいのは、「米国」でも「主義」でもなく、「福音」そのものなのだが。

    メディアを介して日本に紹介される「米国福音派」の印象は、今や、赤い帽子をかぶり、星条旗を掲げる「トランプ支持者」というイメージに固定されつつあるかもしれない。私は、米国福音派の人々のただ中で十二年間を過ごした一人の日本人として、また日本の福音派教会に仕える一牧師として、この印象の固定化に強い危惧を覚えている。

    確かに、2024年の大統領選挙においても、白人福音派の約81%がトランプ氏に投票したと出口調査は伝えている(Edison Research / NBC News Exit Poll, 2024)。この数字だけを見れば、米国の福音派は一枚岩のトランプ支持者集団であるかのように見える。

    しかし、私の周囲にいた福音派の人々の多くは、むしろ、ため息をつきながらトランプ氏に投票したというのが実情に近かった。

    米国において大統領選挙で投票するという行為は、日本における選挙とは比較にならないほど、「国民としての重要な責務」として意識されている。ある時、親しい友人であり、福音派の団体代表者でもある人物が、トランプ主催の晩餐会のような場に出席しているのをSNSで見かけた。私は率直に尋ねた。「なぜ出席するのか」と。彼はため息をつきながら、こう答えた。

    「残念だが、他に投票できるような候補者がいなかったのだ。」

    じゃあ投票しなければ良いじゃないかと言うと、米国民である以上そうはいかないとのこと。あるいは、彼が口にはしない、別の現実もあったかもしれない。

    福音派が米国社会において大きな勢力に見える理由の一端

    福音派に限らず、米国では、それがキリスト教系の病院であれ、学校であれ、慈善団体であれ、宣教団体であれ、その運営資金の多くは献金によって支えられている。団体が宗教法人として認められていれば、献金者は、課税所得から献金額を控除することができる。所得税のすべてを国に納めるよりも、同じ価値観を共有できる団体に一部献金したほうが、自らの理念の実現という見返りがある。場合によっては、団体から名誉職が与えられることもある。

    だから一人の献金でも巨額である場合がある。一見、それは大きな祝福に見えるが、その献金が止まれば、組織は活動停止に追い込まれる可能性もある。だから団体の代表は、言葉は悪いが、「パトロン」たちの意向に、自分の意思に反して同調せざるを得ない場合がある。

    福音派が米国社会において大きな勢力に見える理由の一端はここにある。団体指導者自身は、聖書を毎日読み、神に祈りをささげて一日を始める、平和を愛する人格者であるかもしれない。だが、その団体を支えるパトロンたちが皆そうであるとは限らない。彼らは、クリスチャンアイデンティティーを持っただけの世俗人に過ぎない場合がある。こうして福音派指導者たちは、「清濁併せ呑む」という心境で組織を導いている。

    別の友人はこうも語っていた。

    「人柄だけで言えば、私はトランプよりも、はるかにオバマのほうが好きだ。トランプの振る舞いはあまりにもひどい。しかし、それでも私は、未出生の赤ちゃんを、何の法的制限も設けず、望むままに殺してよいという政策には、どうしても賛同できない。」

    私の知っている福音派の多くは、このような人々であった。投票したからと言って果たして彼らを、単純に「トランプ支持者」と呼んでよいのだろうか。

    「政治家の道具にされてはならない」

    全米福音派協会(National Association of Evangelicals, NAE)が2017年に実施した調査では、福音派指導者のうち89%が「牧師は説教壇から政治家を支持すべきではない」と答えている。

    さらにこの数字は、2024年5月/6月の再調査では98%にまで上昇している(NAE Evangelical Leaders Survey, “Should Pastors Endorse Politicians from the Pulpit?”, 2017 / 2024)。トランプ政権下での経験を経て、福音派指導者層のこの確信は薄れるどころか、むしろ深まったのである。

    また、Public Religion Research Institute(PRRI)の2023年調査では、白人福音派の62%が、「教会が免税資格を保ったまま政治家を支持できるようにすること」に反対の意を示している。これは、白人主流派プロテスタントの77%、白人カトリックの79%と並ぶ、米国キリスト教会全般に見られる堅い良識である(PRRI 2023, via NPR, July 2025)。

    Pew Research Centerの2019年調査でも、米国のクリスチャンの70%が「聖職者は説教壇から候補者を支持すべきではない」と回答している(Pew Research Center, 2019)。

    つまり、米国の福音派指導者と教会の圧倒的多数は、候補者がトランプ氏であれ、他の誰であれ、「教会の公壇が政治の道具にされてはならない」という原則を、明確に共有しているのである。

    その代表的な声の一人が、ティモシー・ケラー師(1950–2023)であった。彼は生涯を通して、福音主義の旗手でありながら、いかなる候補者支持も、いかなる政党との結託も拒んだ。

    ケラー師は、2018年9月の The New York Times 論考 “How Do Christians Fit Into the Two-Party System? They Don’t”「クリスチャンは二大政党制にどう収まるのか―収まらない」の中で、次のように述べている。

    「キリスト教信仰や教会を一つの政党と同一視すれば、それは『宗教とは結局のところ、権力を求める一つの投票ブロックに過ぎない』という懐疑論者の主張を、私たち自身が正当化してしまうことになる」

    そしてもう一人、現代米国の福音主義信仰において、きわめて力強い声の一人であるジョン・パイパー師も、同じ立場を堂々と公表した。彼はトランプを支持するとも、支持しないとも語らない。彼の価値観は、もっと深いところにある。

    「私の召しは、人々をキリストに目を向けさせ、彼の赦しを信頼させ、彼をこの世のあらゆるものよりも高く尊ばせることである。その召しは、いずれか一方の破滅への道筋を支持することによっても、損なわれる」(John Piper, “Policies, Persons, and Paths to Ruin,” 2020年10月)。

    「福音派」の定義と使命とは

    英国の牧師ジョージ・キャンベル・モルガン(1863–1945)は、当時の英国の教会に、「福音派」の定義を誤解するなという意図を込めてこのように語った。

    “To call a man ‘evangelical’ who is not evangelistic is an utter contradiction.”

    「福音伝道的でない者を『福音派』と呼ぶのは、明らかな矛盾である。」

    福音伝道的であるとは、単に福音について研究している、考えているということではない。福音を伝える作戦を練っているということでもない。初代教会の信仰と霊性から離れず、聖霊を信頼し、福音宣教の情熱と実践に実際に生きている状態のことである。そうでないならば、いかに自らを福音派と称しても、それは矛盾である。

    マタイ24章9–14節には、「わたしの名のために」とある。これは、やがてキリスト教会とクリスチャンが経験することになる迫害と試練についてのイエス自身の言葉である。

    この迫害によって、さまざまな現象が起こる。多くのクリスチャンが互いに裏切り、憎み合い、訴え合い、傷つけ合う。また、聖書から乖離した教えを説く偽教師たちが大勢現れ、世界各地で多くの教会とクリスチャンが混乱に陥る。

    こうして教会は秩序を失い、リーダーシップは機能不全に陥り、不法と悪がはびこる。信徒たちの信仰は弱まり、落胆と失望が広がり、愛が冷えていく。

    しかし驚くべきことに、そのような混乱と堕落のただ中か、その先かで、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられ、すべての民族に証しされる。それから終わりが来る」とイエスは預言した。

    これは大宣教命令の完成を意味している。福音を聞いたことがないという人間が一人もいないという状態である。それは当然勝手に起こるのではない。世界中の教会で起きている堕落と崩壊をよそ目に、自らはぶれることなく福音宣教に献身し奔走している,そういう教会とクリスチャンが、恐らく圧倒的に少数であろうがまだ残っているということである。

    一方は、教会の第一義的使命である福音宣教を忘れ、それとは無関係な諸問題に忙殺されている。本質とは関係のない二義的、三義的な問題の当事者となり、発言者となり、加担者となり、あるいは意図せず、そういう教理や文化に引き込まれてしまった教会やクリスチャンである。

    もう一方は、そのような引力に抗い、教会の第一義的使命である福音宣教への献身に留まった教会であり個々人である。時代遅れ、原理主義、盲信者…そういう誹謗中傷と、あらゆる知的風雪に屈しなかった教会であり、個々人である。大宣教命令は彼らが完成させる。

    マタイの福音書24章は、歴史上かつてないようなレベルでのユダヤ人への迫害をも預言している。同時に、それは教会への迫害の預言でもある。そして、その迫害のただ中で明らかになるのは、「神の民」が残されるという事実である(22節)。

    13節には、「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」とある。これは、棄教を迫る迫害者からの拷問への忍耐を意味するかもしれない。又、世界中の教会に狡猾に浸透してくるリベラリズム、異端的教え、魂的(プシュキコス)信仰…すなわち霊的である必要性、聖書的である必要性、福音宣教の緊急性を忘れさせようとする様々な試みに対する忍耐をも意味しているかもしれない。

    いずれにせよ、主イエスは「最後まで耐え忍ぶ人」が救われると語っておられる。

    福音派とは、このような未来を見据えながら、主イエス・キリストのご命令に忠実であろうと、何世紀にもわたって逆風に耐え忍びながら、初代教会的信仰を維持してきたクリスチャンのことである。

    北アイルランド紛争の時代、隣人愛を説くはずのクリスチャンが、なぜ互いに争い、殺し合うのかと、世界中が深い失望を覚えた。その紛争のただ中で戦っていたというある友人が、後に刑務所で聖書を読み、真の回心を経験した時の話を聞かせてくれた。

    彼はこう語った。

    「それまで聖書など読んだこともなかった。自分は間違いなくクリスチャンではなかった。本当にクリスチャンであることと、クリスチャン・アイデンティティーを持っていることとは全く別だ。自分はプロテスタント、敵はカトリックという構図になっていたが、殺し合う者たちの中に本物のクリスチャンは一人もいなかったし、いるはずもなかった。」

    長くなったが言いたいことは、米国で起きている政治的現象だけを見て、米国福音派クリスチャンへの理解を早まらないでいただきたい、ということである。

    福音派にも、本物と、単に親から受け継いだ宗教的・文化的アイデンティティーとしてその名札を下げているだけの者がいる。両者は全く別物である。そして今見られるような戦闘的で破壊的なのは言うまでもなく後者である。

    両者を見極めることは、実はそれほど難しくない。次のように尋ねてみればよい。

    あなたは、イエス・キリストを信じるようになってから、どのように人生が変えられたか。自らの救いを信じておられるなら、その根拠をどこに置いておられるか。

    どのような答えが返ってくるにしても、その時点ではっきり分かるはずである。その人が本当に、聖書が信じる者に約束しているものを受けたクリスチャンであるのか、それとも単にキリスト教的アイデンティティーを下げているだけなのか。もし後者であれ、その人を福音派と呼ぶのは、語用の誤りなのではなく、完全な矛盾である。

     

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