ある牧師が、なぜ祈り会がこれほど少ないのか、それは牧師自身が「生ぬるい」信仰の仲間たちはどうせ来ないだろうと決めつけているからだ、と書いていた。霊に燃えている仲間が数名いれば、まずそこから始めればよい。炎は野火のように広がっていくはずだ、と。「生ぬるい」信仰をどのように霊的に焚きつけるかは、すべての牧者にとって大きな課題である。
だが、この箇所に出てくる問題児たちは、「生ぬるい」人々ではない。むしろ、ものすごく「熱い」。生ぬるいより、はるかに良いはずである。だが、その「熱さ」の動機と方向は、イエスの目には破壊的なものであった。
彼らも最初から、このような状態だったわけではないだろう。イスラエルは、かつて偶像礼拝と不従順の罪のゆえに国を失い、捕囚の民となった。あのような神の裁きは二度とごめんだという強い反動から来る神への畏れと神への愛が最初だったかもしれない。だが、その熱意は次第に、神のためではなく、自分の義、自分の立場、自分の名誉、自分の安心のためへと、静かに入れ替わっていった。
神への愛はどこへ行ったのか。隣人への愛はどこへ行ったのか。イエスは、この二本柱こそが律法と預言者の土台であると言われた。この、静かに、ゆっくり、しかも無自覚のうちに進んでいく霊的な「骨抜き現象」を、私は勝手に「パリサイ現象」と呼んでいる。
これは普遍的な法則ではないかと思う。もちろん、クリスチャンも例外ではない。この方向性を全く持たない罪人は一人もいない。だからこそ、私たちは時折立ち止まって、自分の「パリサイ度」を点検しなければならない。その最も良い方法は、毎日、個人礼拝の時を聖別し、御言葉という鏡に自分を映していただくことである。
しかし、それだけでは十分に制御できないかもしれない。「パリサイ現象」は、本人が気づかぬうちに進行するからである。だからイエスは、「あなたがたも、彼らのように、先生と呼ばれてはならない」と語り、共同体全体に対して警鐘を鳴らしておられる(8節)。また、「父」と呼ばれるべき方も、天におられるおひとりだけだと言われた(9節)。もちろん、主は地上の父親を「父」と呼ぶこと自体を禁じておられるのではない。ここは適用に慎重さを要する箇所である。私自身、「山中先生」と親しみを込めて呼んでいただけることをありがたく思っている。先生と呼ばれることを良しとされる方々の判断を批判するつもりもない。私自身、敬意と親しみを込めて、他の方々を「先生」と呼ぶことも多い。
礼節を重んじる日本の国民性は、それが乏しい国々の人々から羨ましがられることがある。その弊害を知っているからである。イエスはここで、礼節や秩序そのものを無にせよと語っておられるのではない。そうではなく、ああいう宗教者になってはならない、と言っておられるのである。先生と呼ばれないと機嫌を損ねるような宗教家になってはならない、ということだ。
英語圏では、この点であまり悩まされることがない。しかし、日本、韓国、中国のような儒教的背景を持つ文化圏では、「縦に偏りすぎず、横に崩れすぎず」という加減を、絶えず聖霊様に問い続ける必要があるのだろう。
「牧仕」という表記を誰が思いついたか、よく考えられていると思う。ある友人の名刺には「宣教士」と書かれていた。自分は「師」ではなく「福音の戦士」なのだという意味らしい。
とにかく、牧師も信徒も、互いに礼節を重んじつつ、イエスが求めておられる仕える者の方向へと、共に成熟していきたいものである。
ちなみに私としては「ともさん」と呼んでもらえたらありがたいと思っている。