QT/デボーション

マタイによる福音書 24章15〜28節

    イエス・キリストご自身による、世の終わりの成り行きについての言葉が続く。

    9節〜14節までは、「わたしの名のために」(9節)とあるので、キリスト者、教会に対する苦難、試練についての描写と理解すべきであろう。そして15節に入って、イエスは旧約聖書ダニエル書に記された「荒らす忌まわしいもの」(ダニエル9:27、11:31、12:11)という、「迫害者」の存在を明らかにする。彼は「聖なる所に立っている」とある。政治的、軍事的権力者であるだけでなく、自らを神格化、偶像化する悪魔的な人格である。

    16節で、「ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい」と、イエスは警告する。ここで二つの事実が分かる。第一に、これはユダヤという実在する地理的場所で起きるということ。第二に、これはこの地域の人々が必死で逃げなければならない状況であるということである。つまり9節から語られてきたキリスト者への大迫害は、ユダヤ人、又イスラエルにも向けられるものでもあるということである。この「荒らす忌まわしいもの」とは、両者を憎み敵視している。

    16節〜20節から、この迫害がユダヤという地理的場所で起きることが読み取れるが、21節を見ると、「世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような大きな苦難」と記されている。つまり歴史上最悪という意味である。ホロコーストさえ霞むような規模という意味でる。22節には、「もしその苦難の日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう」とある。つまり絶滅寸前というところまで、この迫害は及ぶということである。

    この迫害は、徹底的であり、システマティックである。江戸時代のキリシタン迫害は徹底的であり、戦略的であり、システマティクだった。絶滅する仕組みになっていた。そして本当に日本からキリシタンがほぼ絶滅した。この大艱難時代に行われるユダヤ人に対する迫害も、「絶滅」を目論んだものであるということが理解できる。

    しかしここで気になる言葉が出てくる。「しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。」つまり迫害の年月が、ある目的のために、神ご自身によって収束する。ユダヤ人の中に、「選ばれた者たち」がいるということである。それはどういう人々のことを言っているのか。これはパウロがローマ書11章で語っていることと関係すると思われる。

    そして23節。「その時、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか、『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。」キリストが世界中で待望されている。クリスチャンにとっては再臨のキリスト、ユダヤ人にとっては待望のメシアである。両者の中に様々な憶測、噂、混乱が起きるということである。

    21節をもう一度確認したい。「世の始まりから今に至るまでなかったような、今後も決してないような」つまり、歴史上これ以上ない苦難、患難、迫害、苦しみが、ユダヤ人とキリスト者に向けられるということである。

    私たちキリスト者は、これが我々の未来のどこがで起きるということを覚悟し、この事実を見据えなければならい。この苦しみの日々に、私たちはまだ生きているだろうか。この世界の最終章が開かれる前に、肉体を離れ、主とともにある状態になった人々は、幸いかもしれない。その日々の生き地獄を見ずに済むのだから。この時代が始まれば、もしかすれば「死に急ぐ」キリスト者たちが多く現れるかもしれない。耐え難い日々だからだ。だが、それは神の御旨ではない。なぜなら、この大患難の日々こそ、魂の大収穫の時代でもあるからである。この誰も止められない宣教の勢いの中で、大宣教命令は遂に完成する。(14節)そして終わりが来る。

    この時代に、なお命を守られ生きているキリスト者は、この状況でなければ心を開かない者たちと数多く出会うことになる。この状況でなければ、心砕かれ、罪を認め、神を畏れ、イエス・キリストを自らの救い主として受け入れることの決してない者たちと向き合うことになるのである。世界中が、聖書の預言の通りに事態が展開してゆく様を、身震いしながら見ているのである。迫害の対象者であるユダヤ人とクリスチャンが、「神のことば」と信じる聖書を、もはや誰も「ただの宗教書」だとは思っていない。彼らは、こぞって「イエス・キリストについて教えてくれ。どう備えたらいいのか?」とクリスチャンであるあなたに群れを成して尋ねて来るだろう。その群衆の中には多くの日本人もいるはずである。そのとき、「何をしゃべっていいか分からない」では済まされない。

    もし私がこの時代に、なお命ある者であるならば、ぜひその福音宣教の働きに参与したい。だが、もし生きていないならば、私は今という命の許されている時間の使い方をよく考えねばならない。その魂の大収穫の時代のために、私は、私に代わって、「福音を伝えることのできるキリスト者」を残す結果に向けて今を生きているだろうか。

    だから、今を生きるキリスト者は、次のことを真剣に考えなければならない。

    1. 今からでも「個人伝道」の訓練を受けること。その日は総動員で伝道する日々だからである。出来ればトラクトなしで記憶から、いつでも語れるようになること。福音を、正確に、分かりやすく、救いの確信に満ちて伝えられるように、またいつでも弁明できるように備えをすること。(第一ペテロ3:15)
    2. 自らが、そのようなSoul Winner(魂をキリストへと勝ち取れる者)になるだけでなく、キリストへと勝ち取った対象者にも、自分が受けた訓練を、Pay Forwardし、その者をも自分と同じSoul Winnerへと育てること。この連鎖と増殖を監督すること。(第二テモテ2:2)
    3. Soul Winningと、Soul Winnerの育成は、同時作業である。伝道者がSoul Winningの現場に、後継者を連れていき、「やって見せて、やらせる」を交互に繰り返せば、Soul WinningとSoul Winnerの育成という両方の目的が、増殖的(Exponential)に実現してゆく。そして我々が倒れても、福音宣教は継続する。イエスは弟子たちをそのように育てた。(ヨハネ13:15)だから実が残った。(ヨハネ15:16)
    4. 安全な時代と安全な環境下で、伝道と伝道者の育成に献身出来なければ、命の危険に晒される環境下では尚更献身出来ないであろうと謙虚に考えた方が良い。今の振る舞いが、未来の振る舞いであると。
    5. 世界の終わりへの最終章は、すでに始まっているかもしれない。これは誰にも分からない。「しるし」をよく見極める必要がある。だが、準備は急いだ方が良いかもしれない。

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