聖書には二つの群衆が出てくる。棕櫚の枝を振って「ホサナ」と叫んだ群衆と、その数日後に「十字架につけろ」と叫んだ群衆である。おそらく同じ顔ぶれがかなり含まれていたはずだ。群衆は熱し、群衆は冷める。そして群衆は、自分が何を叫んでいるのかを、しばしば知らない。
一方で聖書には、群衆から離れて独りで神と向き合う場面も繰り返し出てくる。ヤボクの渡しのヤコブ、ホレブの洞穴のエリヤ、そして夜明け前にひとり祈られる主イエス。信仰とは究極のところ、誰にも代わってもらえない「私」の応答である。
キリスト教はこの二つの間に立っている。教会は「集まり(エクレシア)」であり、信仰は「個人の決断」である。どちらかに寄りかかりすぎたとき、教会は病む。
集団心理の危うさ
教会が群衆の力学に飲み込まれると、何が起こるか。
第一に、熱狂が信仰の代用品になる。集会の高揚、指導者のカリスマ、みんなが手を挙げているという安心感。これらは聖霊の働きと紙一重に見えるが、心理学でいう「感情の伝染」とほとんど区別がつかない場合がある。牧会の現場にいた者なら誰でも知っているように、大集会で多くの決心者が出たという報告が、半年後には一人も教会に残っていないという現実に変わることは珍しくない。あの夜、彼らは何に応答したのか。福音にか、それとも会場の空気にか。
第二に、同調圧力が良心を沈黙させる。「みんなが賛成しているから」「先生がそう言われたから」。集団の中で異論を唱えることの心理的コストは高く、そのコストを払わないことが「一致」と呼ばれる。歴史を振り返れば、教会が集団として最も恥ずべき決定をしたとき、そこには必ずこの沈黙があった。戦時下の日本の教会が経験したことも、その一例である。
第三に、集団は自らの存続を最優先する。組織防衛が福音に優先し、群れの外にいる人はいつのまにか「彼ら」になる。キェルケゴールが「群衆は非真理である」と言い切ったのは、このことだ。群衆の中では誰も責任を負わない。責任を負う主体が消えるとき、悔い改めも消える。
個人主義のナルシズム
では、集団の危うさから逃れて「私の信仰」に立てこもれば安全なのか。そうではない。反対側には、もう一つの落とし穴が口を開けている。
近代の個人主義は、宗教改革の「信仰のみ」を、いつのまにか「私のみ」にすり替えた。ルターが語った「私のために(pro me)」は、救いの確かさを一人ひとりに届けるための言葉であって、私を宇宙の中心に据える言葉ではなかった。しかし現代のキリスト教は、しばしば「神は私に何をしてくれるのか」「この教会は私のニーズを満たすか」「今日の礼拝で私は満たされたか」を尺度にする。信仰は自己実現の道具となり、神は私のセラピストとなり、教会は私が選んで消費するサービスとなる。
このナルシズムの厄介なところは、それが敬虔な顔をしていることだ。「私と神との個人的な関係」という言葉は、それ自体は正しい。しかしその「関係」の中身が、結局は自分の感情の満足であるなら、それは偶像礼拝の洗練された形にすぎない。他者に福音を語ることを「押しつけ」と呼んで避け、教会の課題に関わることを「私のスタイルではない」と言って退き、自分の霊性の深まりだけを追い求める信者は、実はきわめて近代的な個人主義者である。
ボンヘッファーは、共同体について自分の理想像を抱く者は、その理想像によって共同体を破壊してしまうと警告した。同じことは個人にも当てはまる。自分の信仰について理想像を抱く者は、その理想像によって信仰を破壊する。
「間」ではなく「外」から
キリスト教のジレンマは、この二つの間で「ほどよいバランス」を取ることでは解決しない。バランスという発想そのものが、集団と個人という二つの極を前提にしているからだ。聖書はもっと別のところから語りかけてくる。
福音は、群衆の中からも、私の内側からも生じない。福音は外から来る。「私たちがまだ罪人であったとき」に、私たちの外側で、私たちの働きとは無関係に、神が御子において成し遂げられた出来事である。この「外から来る言葉」こそが、集団心理と個人主義の両方を裁き、かつ両方を救う。
群衆に対して福音は言う。あなたがたが何人集まろうと、何を叫ぼうと、真理は多数決では決まらない。神の言葉は、あなたがたの熱狂の外にある。
個人に対して福音は言う。あなたの感情も、あなたの求道も、あなたの敬虔さも、救いの根拠ではない。あなたの救いはあなたの外に、キリストのうちにある。
そしてこの外から来る言葉が、人を「ひとり」にすると同時に「共に」する。ひとりにする、というのは、誰も私の代わりに信じることはできないからだ。共にする、というのは、私が信じたのは私だけの神ではなく、同じ言葉によって呼び出された無数の人々の神だからだ。教会とは、この外から呼ばれた者たちの集まりである。群衆は内から湧き上がり、教会は外から呼び集められる。この違いは決定的である。
個人伝道という小さな場所
私はここで、EEが大切にしてきた「個人伝道」という営みを思い起こす。個人伝道は大集会ではない。しかし孤独な内省でもない。一人の人が、もう一人の人に向かって、自分の外にある福音を語る。それは群衆の熱狂から最も遠く、同時に個人のナルシズムからも最も遠い場所である。語り手は語るべき内容を自分で作ることができず、聞き手は群れの空気ではなく一つの言葉への応答を迫られるからだ。
一対一の対話の中では、感情の伝染は起きにくい。誤魔化しも効きにくい。そこにあるのは、外から来た言葉と、それを受け取るか拒むかという一人の人間の決断だけである。そしてその決断がなされたとき、その人は群衆の一員としてではなく、一人の召された者として教会に加えられる。
集団心理の危うさと個人主義のナルシズムの間で、教会が立つべき場所は、その「間」ではない。両方の外から語りかけてくる言葉の前である。その言葉の前にひとりで立ち、その言葉によって共に集められる。これがキリスト教の、古くて新しい答えではないだろうか。